「させていただく」


http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080909
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080909/1220977845


もう一年も前の記事なんですが、これ読んだときに書こうと思ったことあったのをずっと忘れてました。今日ふと思い出したので書きます。


「させていただきます」敬語では、私にもすごく印象に残ってるのがひとつあって、それは2004年のイラク日本人人質事件の報道で耳にした逢沢一郎外務副大臣(当時)の言葉です。「本日、ここアンマンに現地対策本部を設置させていただきました。」みたいなの。ヨルダンが現地なの? ていうのは置いておくとして、「対策本部を設置」なんて副大臣がやるに相応しい重要な仕事をしてるのに「させていただく」なんて誰に何をへりくだっているんだよ。と感じたことを覚えています。


おそらく、逢沢副大臣の気持ちの中に特別な含意はなくて、「本日○○を勤めさせていただきますむにゃむにゃ」みたいに敬語表現のひとつとして日常的に「させていただきます」を使い慣れてたから使ったに過ぎないのだろうとも思いますが、しかしこの「イラク日本人人質事件」をめぐってはいわゆる「自己責任論」だとかいろいろひどいバッシングが飛び交っていたことを考え合わせると、副大臣ともあろうお方が「させていただく」なんて表現を使ったことはやはり、いくらか批判されてもいいのではないかと思います。「渡航自粛勧告は出していたんですけどね、言うこときかないのがいてご迷惑をおかけしております。渡航自粛勧告を重く受け止めイラクへの渡航を自粛してくださった善良なる日本国民の皆さん、邦人救出のためにこうして皆様の血税のお世話になって私、ここヨルダンの対策本部の指揮を取らせていただきます。まことに恐縮でございます。」


もちろん実際にはこんなこと言ってないんですけど、バッシングの中で現地対策本部を設置したという状況とこの敬語表現がとてもイヤな感じにマッチしてしまっているし、少なくともああいう敬語表現を用いた背景には何者かへの配慮が働いていることを考えると、大臣とかやたら敬語使えばいいってもんじゃないよ、と思います。人質に取られている人たちはともかく、テレビの前で注目している「日本国民の皆さん」に対して、常に格別の配慮を示さねばならない日本社会があって、それに乗っかって「させていただきます」と口にしてしまう外務副大臣がいるわけです。ここで少し話はそれますが、逆に、こうした「格別の配慮」とかそういうのをあまり見せない「強いリーダー」像に連なる政治家やら経営者やら、それも近年国民の支持を受けていた人たちって、まさしく人質に「自己責任」とか言いそうなタイプでした。言わないまでも「……ねぇ。」という同意を求める笑みをときにはこぼして見せて、いつもの強張った目つきから柔和に映えるその笑顔が、またぞろ国民の皆様方のハートをつかむみたいな。どっちのタイプにせよ、「人権」とか「反戦平和」みたいなヌルいことはあんまり言わないし、言うときも「今はタテマエの話をしてるんですよ」って態度を漂わせるわけです。私はそういうのって「戦略」だと思ってたんですが、実は戦略なんかじゃなく、本気でそう思っていたみたいです。ここ数年でよくわかりました。

「反日上等」について・応答メモ


ハイクにつらつらと書いてるうちに、先日のエントリ(「反日上等」について)では触れていなかったことなども出てきたので、一応貼っておきます。ブックマークコメントやコメントへの応答になる部分もあるかと思いますので、ひとまずこれをもって応答の代わりにしたいと思います*1

「同胞として受け入れて欲しいだけ」の外国人もいるよ、とか言うけど、本当に日本社会に虐げられ恐怖を抱き、「同胞として受け入れて欲しい」とも言えないまま怒りや戸惑いやつらい歴史を抱えつつ、それでも日本で生活してる外国人がいるわけでしょう。また実際に、明確に「反日」的な暴力行為に及んだ非-日本人もかつていて、そういう人たちのある者は逮捕されて運動体からも追われ、またある者は死刑判決を受けすぐに執行された。外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい」だけの人と、そうでない「反日」的な人がいるという見方そのものもかなり怪しいと思うけど、日本人が真に向き合うべきは「反日」の方だと思います。もちろんそこには慄然とするような隔たりがあって、日本人である以上、口で「私は反日だ」と言おうが言うまいが目糞鼻糞であるかもしれない。

例えば、ウチナンチュの中にも「日の丸を焼くのはやりすぎだ」「同胞としてうまくやっていきたい」という人は当然多くあるだろうし、当然のこととして、ヤマトンチュである私(実は「ヤマトンチュである私」などと沖縄の言葉で自分を規定してみせること自体がなんだか欺瞞的に擦り寄ってる気がして使いたくないのですが)が「日の丸を焼く/焼かない」でウチナンチュの間に線を引いてあれこれと論評するようなことはできない。そんな資格はない。だけど私の問題意識として、「日の丸を焼く」ことを非難し、「反日」と指をさそうとする人が多数派であるという状況であるからこそ、「日の丸を焼く」ウチナンチュの激しい怒りに向き合うことはできないだろうかと考えています。

これは何も別に「同胞として受け入れて欲しいだけ」の人たちの権利運動を否定するものじゃない。ただ、外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい/欲しくない」で線を引き、「反日」と目される人を遠ざけてしまいたくない。「反日上等」が、「同胞として受け入れて欲しいだけ」の人たちをゾッとさせる主張であるということはわかります。そして、私なんかが「反日上等」と言ったところで、本当に「反日」である人と連帯などできてないでしょう。しかし、そうした「反日」の思いを自分自身の問題として引き受けることは困難だけど、避けては通れない、一つの前提ではないかと思います。
http://h.hatena.ne.jp/Romance/9258646731166060463


このエントリに対して、id:PledgeCrewさんからreplyをいただきました。

在特会」の前のデモが標的にしていたのは、いったい誰だった?
なにかあれば、入国管理局のさじかげんひとつで、見たこともなければ、言葉もしゃべれない、友達も誰もいない、生活基盤もまったくない「母国」へ帰されようとしているのはどういう人たち?
不況になれば、いちばんに首を切られ、二度とくるなと言うがごとき念書まで書かされて、母国へ追い返されているのはどういう人たち?
他者支援の運動なら、なによりもいちばん立場の弱い人らのことをこそ、まっさきに考えるべきではないのか。
むろん「同胞として受け入れて欲しいだけ」の外国人もいるだろう。
だが、そこがいちばんの問題なのではない。
そもそも、外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい/欲しくない」で線を引けなどとは、誰も言ってないし、そんなことは全然問題にしていない。
そこで線を引いてはいけないからこそ、安易に相手の言葉に乗って「反日上等」などというスローガンを掲げるなと言っている。
そういう最も立場の弱い人たちに配慮するという意識があったのかどうかをずっと尋ねているのだが、だれからもまだまともな答をもらっていない。

そういう配慮をしていたかどうかは、戦術なんかの問題じゃない。
そういうことが意識にも上っていなかったとすれば、それはその人の思想の問題ということになる。
そもそも、相手の掌にのらずに、あの「反日」なる言葉の愚劣さを暴露する方法は、ほかにいくらでもあるのじゃないの。そういうことをずっと聞いているのだけど。
http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9234070456252809577
http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9236550954659146924*2


以下は上記replyに対する返答です。

返事遅くなりましたが、実際に緊急行動の側でも微妙な政治判断の絡む問題に関しては賛同者の名前をあえて出さないなどの配慮は当然していました。それを踏まえたうえで在特会への対抗行動としていろいろな考えの多くの人が集まったわけで、有象無象の集まりとして健全であったと思っています。

また、「反−反差別暴力が当事者に行く」という問題意識は当然ありましたし、私のはじめのエントリにも書いてあります。
 
ですから、いしけりさんやあなたの懸念も当然理解できる、というかとうに話し合われていた事柄ではあるのですが、例えばあの場で「反日上等」を控えるべきであったかというのはそれほど自明ではないと思います。いしけりさんのコメントで確か署名集めしているときに日の丸うんこが来ると思うとゾッとするというようなのがありましたが、実際に署名集めのときに行ったわけではないわけで、そこらへんは具体的な現場ごとにアピールの仕方があるというのがまあ常識的なおとしどころですよね。なのに、「反日上等」「日の丸うんこ」は対抗行動では不適切だった、というのが「人が死ぬ」という重みまで伴って語られてるのは逆にどうしたことかと思います。
 
「配慮が足りなかったのでは」という批判であれば重く受け止めますしこれまでも今後も忘れてはならない点に違いないですが、いしけりさんの実務家としての説得力によってどうも個別具体的な運動論であるべき領域がイデオロギー的な問題にまで拡大されて否定されているような印象を受けます。それはあなたに対しても思うし、いしけりさんの多くの賛同者からもそういう印象を受けます。

いしけりさんが「おれにしかできないおれの実務」を語るに終始して、賛同者はお話しに満足して帰路につき、不正義(「人が死ぬ」というやつです)は依然アウトソーシングされたまま、「日本人」=暴力主体としての責任がスルーされていますよね。私が「反日上等」という言葉を通じて訴えたかったのは例えば、ノリコさんをおかわいそうな表象として消費しようとする動きに対して、日本社会の「息を吐くような差別」をむしろ問題にしたかったわけです。残念ながらいしけりさんの「おれの実務」は逆にそこを分断しちゃう働きをしてるように感じられてしまいます(杞憂だといいですが)。

いずれにせよ別にいしけりさんの主張の根本の部分と相容れないということはまったくないのにどうしてこう対立してるがごとき表象になっているのかがきもちわるいです。もう消えてしまいましたが私へのいしけりさんの返事は「声高には言わないけど『反日』はあり」だという風に読めましたし、それならそれで全然いいわけです。ただ「声高に言う人がいてはいけない」という点ではまだ議論の余地があるべきだ。と、そういう話です。
http://h.hatena.ne.jp/Romance/9236533548977172113*3


このあと、id:barikome*4さんという方からもまたご意見などいただきました。上記引用部で主要な論点は概ね出ているように思いますが、続くこともあるかもしれないので一応はてなハイクのURL書いておきます。上記引用部は全部ここからです↓
http://h.hatena.ne.jp/id/Romance


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特に気になったブックマークコメントへも応答しておきます。


id:isikeriasobiさん

外国人の声と無関係のデモだった?それなら反日もあり。だが、流れ弾が当たらないような配慮をまったくせずに、特権を自覚している、差別されている人ともに戦いたいと言われても額面どおりには受け取れない。

「配慮をまったくせず」というのは必ずしも実際通りではないですが、そう受け取られないように気をつけろということなんでしょうね。そこは重要な点だと思います。ところで、「額面どおりに受け取」ってもらうためにブログ外でのなんちゃらが必要になるとしたら、それはリテラシーの問題という気がします。実名でいろいろな活動を背景にブログ書いてる人と、私のような匿名の書き手に説得力とかに差が出ること自体は当たり前だし、甘んじて受けますが、なんだか特定の主張にだけ「リアル」「実感」が求められるような風潮は拒否したいですね。(脱線してすみません。)

id:inumashさん

彼らは同胞として迎えられることを望んでいる。そういう人たちへの現実的な影響を考慮せず、彼らの要求に自分たちの主張を結託させてしまうことをishikeriasobiさんは批判しているのだと思うが、これは回答になるのか?

上にも書いていますが、植民地主義的暴力主体としての日本人が、「同胞として迎えられること」を望んでいるか否かで外国人を線引きすること自体に危うさがあると思います。外国人問題を語る際に「同胞」という言葉を使うのは、私にはすごくためらわれるのですが。

id:kmiuraさん

マルコス副司令官最高。でも”反日”土俵に乗るのはよくない。マルコスはおそるべき多様性を提示しているのであって、「反日かどうか」といった類の明快さ、単純さを皮肉っている

「多様性」という言葉は、非対称な関係性をうやむやにする方便としても用いられてきたのだから、この文脈で持ち出すのはあまりに不適切だと思います。マルコスの言葉の趣旨と鑑みても。「「反日かどうか」といった類の明快さ」という風な裏返した書き方もよくなされる感じがします。

*1:手抜きみたいで申し訳ないですが、ハイクで断片的に書いたものをもとに反応をいただくような展開もあり、それをそのまま抜き出しておくのもいいかなと思ったので。

*2:ハイクでは二回の投稿に別れていましたが、ここではまとめました。

*3:引用に当たって、一部誤字修正しました。

*4:現在はid削除されたようです。

「反日上等」について

もともと左翼勢力の非常に強い京都という敵地に乗り込む形で「外国人参政権反対!」を訴えてデモを行うのですから、ある程度の妨害は予想しておりましたが、今回はこれまでにないくらい強硬なものになりそうです。国内治安を脅かし続ける遵法精神の欠片もない左翼勢力および彼らが支援し続ける犯罪外国人たちと、日本の未来をかけて京都で戦うことになります。法治国家日本の破壊を心から願っている反日犯罪左翼勢力から平和な日本社会を取り戻すための戦いが、6月13日の京都で始まるのです。*1

誰かが私に「あなたはまさか反日犯罪左翼じゃないですよねぇ?」と聞くなら、私はどう答えるべきか?
「私は反日犯罪左翼です。」と答えるべきだし、そうしたいと思っています。

それはなぜか?
反日犯罪左翼」という言葉は、在日外国人を犯罪者扱いし、またその権利運動を「売国サヨク」的文脈から危険視/異質視する、きわめて差別的で愚かなレッテル貼りでしかない。くだらない言葉であるにせよ、この言葉が出される背景には強い差別意識がある。だからこそ、この差別語を拒否するべきではない。「やだー! そんなんじゃないですよぉ!」と答えるなら、その差別意識に連なってるのも同じだから。「反日犯罪左翼」って本当になんて言葉だろうかと思う。バカバカしいことこの上ないけど、でも笑い飛ばせばいいものでもない。在留証明書の携帯を義務づけているこの社会は実際に差別社会であり、「反日犯罪左翼」とレッテルを貼られ差別にさらされてる人たちはあなたや私の間にいるのである。

「私は反日犯罪左翼であり日本人です。そして、反日犯罪勢力と呼ばれ差別されている人たちとともに、あなたたちを相手に戦いたいと考えているひとりです。」
もちろん、私がこう表明するとき、日本人であることの特権性は問題になる。この言葉を口にすれば直ちに外国人たちと連帯できるかといえばそんなことは全くないし、特権性は常に問われ続けなくてはならない。しかし、まずはじめにこれを言わないとしたら、あとに続く言葉に何か価値を認められるだろうか?


反日上等」というプラカードはこういう問題意識から作られたんだと思います。私が用意したわけじゃないのでこういう言い方になるけど、少なくとも私はこうした発想から「反日上等」という文句を支持します。「あいつらは反日勢力だ。おまえもか?」と問われたときに「いいえ反日なんかじゃありません。」という人を私は信用しません。「そうだ反日だ。反日上等だ。」と応答することこそが決定的に重要なことだと思います。そしてこれは差別社会の一員として構造的に差別者の側に連なっている日本人として、当然求められる最低限の倫理的態度です。私は外国人たちの代弁なんかできる立場にいないしそんな資格もない。外国人たちがこのような意味での「反日」という意識を持っているかと言えば、それはほとんどありえないと思います。なぜなら「反日」は、差別者としての日本人が投げかける不当な排除意識の現れの一つであり、そもそも実際の外国人たちとは関係ないから。だから「反日上等」は、「この国にいたい、と願う人たちの心からしぼり出されたコトバ*2」では全くないし、それでかまわない。むしろ、私たち日本人が、「反日勢力」などという差別語を許し、差別政策を許してきた日本人が、その日本人としての責任に基づいて言わねばならない言葉であって、「この国の人々の心を揺さぶり、外国人にのしかかる、圧倒的な「制度の力」を解体する可能性を秘めたコトバ*3」に他ならない。



**************



サパティスタ民族解放軍の実質的なリーダーであるマルコス副司令官に対して、「あいつはサンフランシスコのゲイだった」という噂が流された。ホモフォビアが強く残るメキシコでは、「ゲイである」が醜聞としてインパクトと有効性を持つ。と考えた保守系勢力が流したのかもしれない。噂が大きく話題になるのを受け、サパティスタは「マルコスが、同性愛者であるかどうかについて」という公式声明を発表した。*4

メキシコの南東の山の中から。
副司令官 マルコス
1994 年5月

マルコスは、サンフランシスコのゲイである。 そして、南アフリカの黒人であり、 ヨーロッパのアジア人であり、 スペインの無政府主義者イスラエルパレスチナ人、 観光地の先住民である。 貧民街の暴力団員、 由緒正しい大学のロックミュージシャン、 ドイツのユダヤ人、 国防省の中の人権擁護者、 政治的な政党の中のフェミニスト、 冷戦後の共産主義者ボスニアの平和主義者、 ギャラリーも地位もない芸術家、 メキシコのあらゆる都市や場所に暮らす、土曜日の夜を過ごす家庭の主婦、 20世紀の終わりにおけるメキシコのゲリラ、 御用組合の中でストライキをする者、 フェミニズム運動の中のセクシスト、 午後10時に地下鉄の駅に1人でいる女性、 土地のない農民、 地下出版社の編集者、 失業した労働者、 オフィスのない医者、 流行にはずれた学生、 ネオリベラリズムに反対する反対派の人、 著書や読者を持たない作家、 そしてもちろん、メキシコの南東部のサパティスタ。 言い換えるなら、 マルコスは、この世にどこにでもいるような人間である。 マルコスは、 受け入れられず、抑圧され、単に利用されている、すべてのマイノリティーであり、抵抗し続ける少数派だ。 そしてこう言っている。


「もう、たくさんだ!」

彼は、いま話し始めている少数派の、1人1人である。そして彼は、口を閉じて黙り人の話を聞かなければならない多数派の、1人1人である。
彼は、話す方法を、彼ら自身が話すための方法を探している、あらゆる受け入れられていないグループの一つ一つである。

パワーを創り出すもの、そして、権力の中にいる人たちのあの不快な「良識」--これがマルコスである。

あなたは歓迎される、司法長官のオフィスの親愛なる紳士。
私は、あなたに奉仕するためにここにいる。*5

穢れてない日の丸なんてないのに(外国人排斥を許さない6・13緊急行動)【追記あり】


※携帯電話で更新した関係か、エントリが途中で切れていたので、そこのところ追記するとともに、脚注も追加しました。


外国人排斥を許さない6・13緊急行動
http://613action.blog85.fc2.com/

昨日、これ↑に参加してきました! 参加した人からの報告もすでにありますね。


外国人排斥を許さない6・13緊急行動に参加してきました - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20090613/p1

在特会許すな!ファシスト倒せー、おー!」 - はにかみ草
http://blog.goo.ne.jp/hanxiucao/e/fcae41aa017fa16ad78451234762d301


用事があって9日の火曜日から京都に滞在してて、予定では12日に帰るつもりだったんですが、せっかくなのでもう一泊して13日の緊急行動に参加してから帰ることにしたのでした。

11時半頃に三条京阪駅から地上に出ると、川原に集合してる集団が見えました。ああ、あれだなってすぐわかりました。橋の上から眺めてる人たちも大勢いて、そういう人たちの間を縫いつつすこし急ぎ足で橋を渡ってたら、(上にも挙げた)「はにかみ草」のぅきき(id:hanxiucao)さんが年配の男の人と会話しながら歩いてるのが見えました。私はてっきり、仲間と一緒に来たのかと思ったんですが、「外国人なんて悪いこといっぱいしてるじゃねーか!」「なんでそうやって決めつけるんですか!」*1なんて会話が漏れ聞こえてきたので、会話しながら歩いてたんじゃなくて、論争しながら歩いてたみたいです。集合場所に着く寸前からギャラリーと論争してるぅききさんすごいとか思いました。


川原ではid:umetenさんやid:nopikoさんとも無事合流できました。nopikoさんトラメガ持参だったので「うひょー借りたい!」と思ってテンション上がりました。umetenさんも書いてますが、ヘタリア横断幕はちょっと……と思いましたねー。こうやってヘタリアに反応してしまうのは「はてな脳」なのかもしれないですけど。でもでかい布地にすごく上手に描いてあってすごいと思いました*2。あと、ぅききさんも書いてますが、日章旗を持ってる人がいました。私は一瞬、在特会の隊列が近づいてきたら燃やしてみせるために用意したのかな? なんて思ったんですけど、その人はプラカードも用意していて、そこには「日の丸を穢すな」と書いてあったので、火をつけるために用意したわけじゃないってことはすぐにわかりました。お話ししたいとは思ったんですが、結局最後までその人とコミュニケーションを取らなかったので真意はわかりません。同じ行動に参加して同じ場所にいたのにその場で話さないで、後日こうやってブログで言及するのもなんか良くない気はするものの、「日の丸を穢すな」という主張にはやはり違和感があります。この点については後述します。


川原でシュプレヒコールなどした後に出発しました、道中トラメガを借りて「ゼノフォビアきもーい」など沿道に主張したりしてゆっくり歩きました。「日の丸を穢すな」に対抗して「日の丸を穢すぞー」「日の丸はunkoだー」と言っている人に賛同して声を合わせるなどしつつ。手作り感のある、というより実際に手作りの横断幕とプラカードで、それぞれ好き勝手な主張をしているような感じでした。詰めて話し合えば意見が違う人も多かったと想像するし、まあそういうものなんだろうなーって。蕨市在特会がしたことへ怒りを覚えたり、排外主義が高まっていくことに危機感を募らせた人が集まったというだけなんだと思います。例えば、「みんななかよく」という主張をプラカードでみかけましたが、私としては微妙な感じ……。何も「なかよく」しなくたって共存共生できると思うし。まあいろんな人がそれぞれ別の立場でも、根本で同じ思いを共有してひとまず集まれたんだから、それは全然悪いことじゃないと思います。


デモ行進は一時間くらい(?)*3で終わって、三条の川原に戻ってきてダラダラしました。というのも、今回の行動はデモ行進だけで終わりではなく、在特会のデモ行進(14:30〜)に合わせて情宣・ビラ撒きを予定していたからです。ビラ撒きとかするにしても、せっかくだから在特会接触しちゃいそうな地点が一番おもしろいよね、ってことで阪急前に行く一群に混ざることにしました。またしてもプラカードやトラメガを持って行ったんですが、今度はデモ行進じゃないのにプラカードとかトラメガとか持ってたら不当逮捕の口実になるのでわ? とか余計な心配を密かにしてました。結果としては杞憂に終わりましたけど、「プラカードは武器になりうる」とかいう口実で逮捕された事例があったので……。阪急前にいたら年配の男性に声をかけられました。曰く、「日本人にファシストなんていないよ。アメリカがそんなこと言ってるだけだろう。それに、今は日本人の若い人でさえいっぱい自殺してる。外国人なんて受け入れてる余裕なんてないじゃないか。」こんな内容でした。認識が私と全然違うので会話するのも面倒に思えたけど、ぅききさんみたくちゃんと言うこと言うべきだ! と思い直して、私も思ったこと手短に言いました。「そうやって外国人を追い出すことを当然のように思ったりする、奪い合うような息苦しい世の中だから若い人が自殺しちゃうんじゃないですか?」って。その人はすぐいなくなっちゃったけど。


在特会のデモ隊が近づくにつれ警官の人数も増え、待機してたメガホン搭載車両が移動させられたりしました。在特会接触しちゃいそうな地点に来たつもりが実際はそうでもないポイント*4にいてしまったみたいで、残念でした。よく見えなかった。でもプラカードなどはいくつか見えました。「売春婦」とか書いてるのがが見えたような……。激しい怒りを感じました。阪急前に出発する際、実行委員の人から「在特会が近づいてきたら頭に来たりもするでしょうが、みんながみんなそっちに行っちゃうんじゃなくて、道行く人にビラを配ったりなどのアピールは冷静に続けてください」みたく言い含められていたにもかかわらず、結局ほとんど全員が在特会の隊列に向けて「差別やめろー」「在特会帰れー」的なことを叫んでいました。みんな本心からむかついたんだから仕方ないです。おそらく、道行く人にとっては異様な見せ物だったと思います。大量の警官やバスみたいな警察車両にガードされながら、日章旗を掲げた集団が歩いてくる。横断幕には「在日特権を許さない市民の会」みたいなことが書いてある。四条河原町の交差点の四つ角にはそれに抗議する集団が大勢いてなんだかわめきちらしている。なんなのこれー、と感じた人多かったと思いますけど、「なんなのこれー」でも感じてもらえればいいということにしたいです。外国人を差別する人がいて、それに抗議する人もいる、っていうことだけでも知ってくれれば。



そんなわけでこの「緊急行動」自体は終わったんですが、その後いろんな人と話してる中で気づくことも多かったです。


在特会はまず市役所前に集合したそうなんですが、その市役所前で在特会の差別的な発言やプラカードを見て、ショックのあまり涙を流してる在日の人もいたそうです。私は在特会への怒りを共有し、趣旨に賛同して今回の行動に参加しました。「労働者に国境はない」「連帯するぞ」とは言いますがしかし、在特会の差別発言に直に傷つく立場の人と本当に連帯できていたのかは疑問です。全く無駄なことをしたとかそういう意味では全然ないんですが、日本人であるという「特権」を背景にしていたからこそ幾分かの「余裕」をもってこうした行動に参加できた。という意識が必要だと思いました*5。それに、在特会というのはただの「現れ」にすぎません。あんなことを往来に出て公然と主張するような集団が出てきてしまったこと自体がある種後退であって、なんで今さらあんな連中の相手をしなきゃいけないのか、ということ自体が悔しいことでもあります。在特会の隊列には、昔からいる保守勢力のお金持ちと、京都外から参加した若い人たちの両方がいたそうです*6。私の知人にも、在特会までいかなくてもネトウヨ的な主張に心情的に賛同してそうな人はいます。彼らは彼らなりに「生きづらさ」を感じていて、自分や仲間たちが不当ないきさつから困難な立場におかれていると思ってる。自分の生が軽んじられてるみたいな不満を抱いている。だから、そこの時点では私も含めた左翼界隈の貧乏くさい人たち*7とそんな変わらないですよね。拠り所にするものちがってるだけみたい。労働運動とかがクローズアップされ、左翼運動回顧本が多数出版される中であっても、「俺たちの仕事をやつらが」という煽動のもとにそうした「生きづらい」意識が外国人排斥に転化するのはいかにも起こってきそうな流れでした*8。私にとっては、差別や自慰史観は全て敵です。憎い。けれども、そういう主張の拡大を許してしまっていることが最も残念なことだし、「在特会」なんていう差別者集団が大声をあげるに至る前から、もっと「ソフィスティケイトされた差別」が微量栄養素みたいに当たり前に必要とされて、日本社会のすみずみまで、血流のようなお金の流れに乗ってどこにでも存在していたように思います。



あと、上に挙げた記事へのコメントとか読んだんですけど、「反日上等」は日本人に対して排他的じゃんかよ、みたいな考えはわけわかんないです。「日本人に対して排他的」などという事態が日本国内で起こることなんてことが現実になればどんなにいいかと思いますね、私は。前述の「日の丸を穢すな」にもつながるんですが、「日の丸に愛着を持っている人たち」「天皇一族に特別の敬意を抱いている人たち」への配慮を必要とする左翼運動なんてハナクソだと思いますよ。ながーい歴史、独特で優秀な単一民族、洗練された礼儀作法、清廉なる道徳意識、笑顔の裏で過酷な公務をこなす天皇陛下、、、みたいな「美しき日本の規律」の象徴として、白布に赤丸を染め抜いたシンプルなデザインの日章旗が持ち出されてるわけですが、そこですでにある「日の丸の穢れ」*9に全く考えを向けずスルーしたうえで美しさにだけ酔ってみせて自慰にふけるのがとんでもなく醜悪だ。という話です。せめて「日の丸をこれ以上穢すな」ならまだマシなのかもしれないですね。在特会日章旗を振ること自体はわかりやすくてとてもいいことだと思います(皮肉)。



散漫なエントリになりましたが、とにかく今回の行動に参加できてよかったです。楽しかったというのもあります。終わったあとは川原で飲みました。手作りの横断幕やプラカードで、カンパを出し合って集まった250人(くらい?)です。変わった雰囲気の人もいっぱいいます。それぞれの立場から問題意識を持って集まった人たちでした。終わった後にゆっくり交流できたのはとても良かったです。余談ですが、在特会のデモ隊は横断幕もプラカードも(手作りじゃなくて)ちゃんと活字で作ってありました。お金かかってます。きちんと統制された中で「劣等民族は出て行け」的なことを叫んでいたのかもしれないです。在特会側のデモに参加した人たちに、今日は楽しかったですか? って聞きたい。「外国人出て行け」って叫べて「ああ良かった!」と思えたかどうか聞きたいです。まあ楽しかったんだろうなとは思いますが……。

*1:不正確ですがこんな感じだったかな……。

*2:http://blog-imgs-30.fc2.com/6/1/3/613action/demo08.jpg

*3:時間見てないから正確なタイムスケジュールわかりません。

*4:在特会四条河原町の交差点を北から来て西に抜けて行ったので、阪急前は一番遠い感じだったのです。

*5:反差別運動へのカウンターとしての反反差別暴力は結局、当事者に行くという問題もあります。

*6:私はよく見えなかったのでわかりませんでした。聞いた話です。

*7:いい意味で言ってるんですよ!

*8:実際に、「外国人は仕事を奪うな」的なプラカードもあったそうです。また、これは終了後にid:gnarlyさんから聞いた話ですが彼らは別の場所では「階級闘争を忘れた左翼は帰れ」と主張していたそうです。つまり彼らなりの自己認識においては、自分たちこそ現在進行形で階級闘争を担っているということのようです。

*9:端的には戦争犯罪を指しますが、しかしそれは60年前に完結したものではなく、戦後においても植民地主義は続いてきたと考えています。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク TOKYO」行ってきました


http://www.dialoginthedark.com/


詳しくは↑のサイトを見てもらえばいいんですけど、「目で見ない展覧会」です。明かりが全くなくて、どんなにいても目が慣れてこない真っ暗やみの中で、視覚以外の感覚を使っていろいろ体験します。

すごく面白かったんでどんな感じだったか言いたいんですけど、これから行く人はなんの先入観もなしに体験した方が絶対いいと思うので、あんまり書かないでおこうと思いました!

私は触覚に頼りっぱなしでした。右手に白い杖を持っていたんですが、右手では杖ごしに床の感覚を確認しつつ、しばしばしゃがんで左手でいろいろ触りまくってました。

で、思ったんですが、私は「こういう企画の展覧会だから触っても危険なものなんてないだろう」という確信のもとに、無警戒にいろんなものに手を伸ばしてました*1。そして、実際にすごく汚かったり怪我するようなものはなかったように思います。でも本当に視覚障碍の人にとってはどこでもが真っ暗やみなわけで、そう無警戒に手を伸ばすことなんてできないですよね。

一時間超の真っ暗やみ体験はとても興味深くて、赤の他人と声を掛け合って協働するようなとことかとても新鮮で楽しいことだらけだったんですが、ギョッとする瞬間とか恐怖とか、私にはほとんどありませんでした。そういう意味では、「視覚障碍とはどんなものか」を体験するようなイベントではやっぱりないんですね。多分。会場内に密かにネコとかヘビとかピザ*2とかあれば、またそういう方向性も出てくるかもとか考えましたけど、そうすると今度はバラエティ番組でお笑い芸人が毛の生えた大きなクモが入ってるボックスに手を入れるみたいな感じになって、ちょっと不真面目になっちゃうのかもしれないです。

とりあえずおすすめのイベントなので紹介しましたー。

*1:対象に向かって手を伸ばしていくという感じはないのでこの言い方はおかしいですね。足とか杖で確認してからなら「いろんなものに手を伸ばした」という表現でもいいかもですが。

*2:ピザじゃなくても手にべちょって感触あるもの。

「東京都安全・安心まちづくり条例」改正反対

そういえば3月22日に新宿駅前のフラッシュモブ行きました。「東京都安全・安心まちづくり条例」改正に対する抗議行動として行われたものです。 めいめいが持参した本を、アルタ前で適当に読む。というやつ。

【参考】http://www.delta-g.org/news/2009/03/22.html



VQ1005で撮影したらすてきな写真になったので置いときます(本読んでるとかわかりにくいけど)↓





一般的には、「安全・安心」の方がいいように思えますよね。私もそうです。でも、ここ数年の警察権力の介入っぷり(ビラ撒きとかのありましたよね)見てると、この条例が掲げる環境美化/治安強化といった言葉が、とても「危険・不安」なものに思えます。皮肉だー。

あと「くびくびカフェ」応援してます。痕跡が不穏にざわめいてる*1っぽいからです。
http://extasy07.exblog.jp/

強力に管理されたきれいな街、なんてイヤです!*2

*1:http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24219/1/%E7%AC%A0%E6%9C%A8%E4%B8%88.pdf

*2:という点にも共通する問題関心あると思ったので書いときました。職員首切りももちろんひどいんですけど。

洋上のスピーチタイム


村上春樹さんがイスラエル文学賞エルサレム賞」を受賞し、授賞式の記念講演でイスラエルのガザへの攻撃などを批判したそうです。

村上氏、イスラエル授賞式で講演 「制度が組織的に人を殺す」


エルサレム16日共同=長谷川健司】作家の村上春樹さん(60)が15日夜、イスラエル文学賞エルサレム賞」の授賞式で記念講演し、イスラエルパレスチナ自治区ガザ攻撃に言及した上で「わたしたちを守るはずの制度が組織的に人を殺すことがある」と述べ、一人一人の力で国家や組織の暴走を防ぐよう訴えた。

村上さんは、エルサレムで開かれた授賞式に出席することが「圧倒的な軍事力を使う(イスラエルの)政策を支持する印象を与えかねない」と熟慮した末、「欠席して何も言わないより話すことを選んだ」と明らかにし「メッセージを伝えることを許してほしい」と切り出した。

村上さんは、小説を書く時「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」を常に心に留めており、「わたしは常に卵の側に立つ」と表明。壁とは「制度」の例えだと説明し「制度は自己増殖してわたしたちを殺すようになったり、わたしたちに他人を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる」と警告した。

これに対し、「卵」は壊れやすい殻に包まれたような個々人の精神を意味するとし、個性を大切にすることで「制度がわたしたちを利用するのを許してはならない」と語った。

講演は英語で約15分間行われ、約700人の聴衆が大きな拍手を送った。一方で「政治的な内容で不愉快。イスラエルに賞をもらいに来て批判するのはおかしい」(中年男性)という声も聞かれた。

http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021601000122.html

講演での発言内容についてはここも詳しいようです↓
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html


昨年暮れからのイスラエルによる大規模なガザ攻撃があったこともあり、村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞のニュースは大きな話題になりました。その中には、受賞を拒否すべきだとか、受けるにせよ政治的なメッセージをきちんと発するべきだという意見もありました*1村上春樹という著名な作家がこの賞を受けることの政治的な意味を問う、その問題意識には私も共感できるところがあったし、辞退を求める運動にしたって、それが不当な「恫喝」であったとは全く思いません。こうした国内の動きは村上さん本人にも伝わったようで、スピーチの中でも言及があったようです。よかったと思います。

さて、昨晩の村上さんのスピーチは会場でも拍手をもって迎えられ、この報道に対する日本国内の反応も好意的のようです。「あえて」エルサレムに出向き発言したこと。そして、イスラエルパレスチナ人に対する軍事的介入や分離壁の建設などを批判するメッセージを村上さんなりの表現でしっかりと述べたこと。「立派なスピーチであった!」と高く評価されているようです。私も、(要旨を読んだだけだけど)いいこと言ってると思いました。壁にぶち当たってグシャッと壊れる「たまご」のイメージ。人間性を蹂躙する「壁」の力に対して、あくまで「たまご」の側に立つというメッセージはすてきなものだと思いました。

……しかし一方で、私は昨晩の村上さんは、ほとんど最悪の選択をしたのではないか? とも思います。

選択肢はいくつかあった。受賞を拒否する/しない。拒否しないなら、授賞式において政治的な発言をする/しない。イスラエルを批判する/しない。どれが正解だったかなんてわからないし、村上さんは自分の責任に基づいて言うべきことを言った、それは素晴らしいことだと思います。しかし、昨晩の「イスラエル批判」への万雷の拍手! エルサレムにおいてさえ起こった盛大な拍手。こんな醜悪なものがあるでしょうか? まさしく分離壁の向こうでなにもかも失ってただ生き延びている人たちがいる、その頭上に風に乗って響く賞賛の拍手。遠く極東の地で、「村上は立派であった!」と胸を撫で下ろすとき、なにか大切なことを忘れてしまっていそうで怖いです。私は誰を批判したいわけでもありません。私自身の問題関心に基づいて、今日の違和感を書き留めておきたいと思った。ならば、受賞を拒否すればよかったのか? それも最悪に近いのではないか? 村上春樹の毅然とした態度に世界中で拍手が巻き起こるだろう。

この世に不正がある。私たちは不正を憎む。見て聞いてすこし考えて、言う。船の上の出し物。一曲披露して拍手をもらう。

船は沖に向かい、土は見えない。

陸に戻ろうと、乗員たちに呼びかける人がいる、そうだそうだと拍手が巻き起こる。しかし船から飛び降りて一人泳いで陸を目指すこともできるはずではないか? 今日、2009年2月16日のこの瞬間。あなたや私にとって、「船から飛び降りる」ことが何を意味するか、私にはわからないです。多分、それぞれなにかやるべきことがあって、それは一人一人違うのかもしれない。少なくとも私は、何をすればいいのかわからなくて気分が悪いです。




【参考】
本エントリはid:toledさんが最後に*2村上春樹さんのスピーチが実際に行われる前に書いたエントリの問題提起に、私なりの考えをメモしたものです*3。そのエントリが今は消えちゃってるので、ここにコピペしておきます。


エルサレム村上春樹



さて、授賞式から一日が経過しました。


みなさん、どのような感想をお持ちでしょうか?


僕の評価は次の通りです。
まず、スピーチ原稿の質は、確実にスーザン・ソンタグよりも高いものでした。おそらく、練りに練って作られたものだと思います。
また、例のパフォーマンスにしても、なかなかのものであったと言ってよいと思います。
われわれの「要求」は、期待以上のかたちで実現しました。





さて質問です。
何かが変わったでしょうか?





答えは否、です。
というか、変わりました。
悪くなりました。




なぜならば、これに関わった人々が、すっきりしてしまったからです。
その人々は、数少ない善人で、またなおかつ実践家でした。
岡真理のような癒し系アイドルとは違います。
あなたがたは、地道な努力をして、運動に関与してきたのです。


さて、運動というものを腐敗させる要因の一つは、「ニセの達成感」というものです。




そもそもからして、スーザン・ソンタグの演説自体が、おそろしくぬるいものでした。
彼女は、エルサレム賞イスラエル及びそのほか全世界における諸関係において果たしている機能を機能させる役割を引き受けました。


イデオロギーというのはそういうものです。
エルサレム賞とはなにか?
すこしネットで調べればすぐにわかることですが、イスラエルの中東における特殊性を証明するための制度と儀式です。特殊性とは、「民主主義」とか「自由」とか「寛容」といったようなことです。


さて、それらは、一見、現実の軍事力やその行使のあり方と矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし、その矛盾にこそ価値があるのです。


少なくとも現代の国家暴力は、ある程度ねじれたあらわれ方をします。
それはこのような論理を背景としています。
よきものがある。よきものは脅威にさらされている。脅威はよきものではない。したがって、よき戦術は通用しない。だから、よきものをまもるために、「あえて」わるくなる。


これは一人一人の個人のなかにある正当化のひな形でもあるし、また、集団内における「良心」と「無法者」の役割分担でもあります。これについては「永遠の嘘をついてくれ」というエントリーで詳しく説明しましたので、ぜひご参照ください。


背景は以上の通りです。
その文脈においてエルサレム賞は存在します。
ということは何を意味するでしょうか?
たとえば受賞者がエルサレム賞を拒否したり、授賞式において苦言をていしたとしましょう。
そのようなことを可能にするイスラエル社会とは何でしょうか?
そのようなリスクをおかしつつスーザン・ソンタグを選んだことに、どのような意図があったのでしょうか?





しかしそれでも、今回、ハルキは立派でした。
とりあえずほめてあげましょう。


そして、そのことはすっぱり忘れましょう。
また今日も、明日も、明後日も、今までの実践が続きます。
そして、それを少しレベルアップした自分がやります。
なぜならば、村上春樹を媒介することによって、われわれは自覚せざる得なかったからです。
いま、まさにここが「エルサレム」だということを。
街に出て、キョロキョロしてみてください。「壁」が見えてきます。


【参考2】

どれくらい胸いっぱいの愛を
どれくらい胸いっぱいの愛を
抱えたら僕ら 伝えられるんだろう?


ロッタラ ロッタラ(初回限定盤)[DVD付き]

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*1:http://www.hokkaido-np.co.jp/news/culture/146287.html

*2:ちがうかも?

*3:全然回答になってないのでメモとしか言えない