「反日上等」について

もともと左翼勢力の非常に強い京都という敵地に乗り込む形で「外国人参政権反対!」を訴えてデモを行うのですから、ある程度の妨害は予想しておりましたが、今回はこれまでにないくらい強硬なものになりそうです。国内治安を脅かし続ける遵法精神の欠片もない左翼勢力および彼らが支援し続ける犯罪外国人たちと、日本の未来をかけて京都で戦うことになります。法治国家日本の破壊を心から願っている反日犯罪左翼勢力から平和な日本社会を取り戻すための戦いが、6月13日の京都で始まるのです。*1

誰かが私に「あなたはまさか反日犯罪左翼じゃないですよねぇ?」と聞くなら、私はどう答えるべきか?
「私は反日犯罪左翼です。」と答えるべきだし、そうしたいと思っています。

それはなぜか?
反日犯罪左翼」という言葉は、在日外国人を犯罪者扱いし、またその権利運動を「売国サヨク」的文脈から危険視/異質視する、きわめて差別的で愚かなレッテル貼りでしかない。くだらない言葉であるにせよ、この言葉が出される背景には強い差別意識がある。だからこそ、この差別語を拒否するべきではない。「やだー! そんなんじゃないですよぉ!」と答えるなら、その差別意識に連なってるのも同じだから。「反日犯罪左翼」って本当になんて言葉だろうかと思う。バカバカしいことこの上ないけど、でも笑い飛ばせばいいものでもない。在留証明書の携帯を義務づけているこの社会は実際に差別社会であり、「反日犯罪左翼」とレッテルを貼られ差別にさらされてる人たちはあなたや私の間にいるのである。

「私は反日犯罪左翼であり日本人です。そして、反日犯罪勢力と呼ばれ差別されている人たちとともに、あなたたちを相手に戦いたいと考えているひとりです。」
もちろん、私がこう表明するとき、日本人であることの特権性は問題になる。この言葉を口にすれば直ちに外国人たちと連帯できるかといえばそんなことは全くないし、特権性は常に問われ続けなくてはならない。しかし、まずはじめにこれを言わないとしたら、あとに続く言葉に何か価値を認められるだろうか?


反日上等」というプラカードはこういう問題意識から作られたんだと思います。私が用意したわけじゃないのでこういう言い方になるけど、少なくとも私はこうした発想から「反日上等」という文句を支持します。「あいつらは反日勢力だ。おまえもか?」と問われたときに「いいえ反日なんかじゃありません。」という人を私は信用しません。「そうだ反日だ。反日上等だ。」と応答することこそが決定的に重要なことだと思います。そしてこれは差別社会の一員として構造的に差別者の側に連なっている日本人として、当然求められる最低限の倫理的態度です。私は外国人たちの代弁なんかできる立場にいないしそんな資格もない。外国人たちがこのような意味での「反日」という意識を持っているかと言えば、それはほとんどありえないと思います。なぜなら「反日」は、差別者としての日本人が投げかける不当な排除意識の現れの一つであり、そもそも実際の外国人たちとは関係ないから。だから「反日上等」は、「この国にいたい、と願う人たちの心からしぼり出されたコトバ*2」では全くないし、それでかまわない。むしろ、私たち日本人が、「反日勢力」などという差別語を許し、差別政策を許してきた日本人が、その日本人としての責任に基づいて言わねばならない言葉であって、「この国の人々の心を揺さぶり、外国人にのしかかる、圧倒的な「制度の力」を解体する可能性を秘めたコトバ*3」に他ならない。



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サパティスタ民族解放軍の実質的なリーダーであるマルコス副司令官に対して、「あいつはサンフランシスコのゲイだった」という噂が流された。ホモフォビアが強く残るメキシコでは、「ゲイである」が醜聞としてインパクトと有効性を持つ。と考えた保守系勢力が流したのかもしれない。噂が大きく話題になるのを受け、サパティスタは「マルコスが、同性愛者であるかどうかについて」という公式声明を発表した。*4

メキシコの南東の山の中から。
副司令官 マルコス
1994 年5月

マルコスは、サンフランシスコのゲイである。 そして、南アフリカの黒人であり、 ヨーロッパのアジア人であり、 スペインの無政府主義者イスラエルパレスチナ人、 観光地の先住民である。 貧民街の暴力団員、 由緒正しい大学のロックミュージシャン、 ドイツのユダヤ人、 国防省の中の人権擁護者、 政治的な政党の中のフェミニスト、 冷戦後の共産主義者ボスニアの平和主義者、 ギャラリーも地位もない芸術家、 メキシコのあらゆる都市や場所に暮らす、土曜日の夜を過ごす家庭の主婦、 20世紀の終わりにおけるメキシコのゲリラ、 御用組合の中でストライキをする者、 フェミニズム運動の中のセクシスト、 午後10時に地下鉄の駅に1人でいる女性、 土地のない農民、 地下出版社の編集者、 失業した労働者、 オフィスのない医者、 流行にはずれた学生、 ネオリベラリズムに反対する反対派の人、 著書や読者を持たない作家、 そしてもちろん、メキシコの南東部のサパティスタ。 言い換えるなら、 マルコスは、この世にどこにでもいるような人間である。 マルコスは、 受け入れられず、抑圧され、単に利用されている、すべてのマイノリティーであり、抵抗し続ける少数派だ。 そしてこう言っている。


「もう、たくさんだ!」

彼は、いま話し始めている少数派の、1人1人である。そして彼は、口を閉じて黙り人の話を聞かなければならない多数派の、1人1人である。
彼は、話す方法を、彼ら自身が話すための方法を探している、あらゆる受け入れられていないグループの一つ一つである。

パワーを創り出すもの、そして、権力の中にいる人たちのあの不快な「良識」--これがマルコスである。

あなたは歓迎される、司法長官のオフィスの親愛なる紳士。
私は、あなたに奉仕するためにここにいる。*5