洋上のスピーチタイム
村上春樹さんがイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞し、授賞式の記念講演でイスラエルのガザへの攻撃などを批判したそうです。
村上氏、イスラエル授賞式で講演 「制度が組織的に人を殺す」
【エルサレム16日共同=長谷川健司】作家の村上春樹さん(60)が15日夜、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」の授賞式で記念講演し、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ攻撃に言及した上で「わたしたちを守るはずの制度が組織的に人を殺すことがある」と述べ、一人一人の力で国家や組織の暴走を防ぐよう訴えた。
村上さんは、エルサレムで開かれた授賞式に出席することが「圧倒的な軍事力を使う(イスラエルの)政策を支持する印象を与えかねない」と熟慮した末、「欠席して何も言わないより話すことを選んだ」と明らかにし「メッセージを伝えることを許してほしい」と切り出した。
村上さんは、小説を書く時「高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵」を常に心に留めており、「わたしは常に卵の側に立つ」と表明。壁とは「制度」の例えだと説明し「制度は自己増殖してわたしたちを殺すようになったり、わたしたちに他人を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる」と警告した。
これに対し、「卵」は壊れやすい殻に包まれたような個々人の精神を意味するとし、個性を大切にすることで「制度がわたしたちを利用するのを許してはならない」と語った。
講演は英語で約15分間行われ、約700人の聴衆が大きな拍手を送った。一方で「政治的な内容で不愉快。イスラエルに賞をもらいに来て批判するのはおかしい」(中年男性)という声も聞かれた。
講演での発言内容についてはここも詳しいようです↓
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html
昨年暮れからのイスラエルによる大規模なガザ攻撃があったこともあり、村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞のニュースは大きな話題になりました。その中には、受賞を拒否すべきだとか、受けるにせよ政治的なメッセージをきちんと発するべきだという意見もありました*1。村上春樹という著名な作家がこの賞を受けることの政治的な意味を問う、その問題意識には私も共感できるところがあったし、辞退を求める運動にしたって、それが不当な「恫喝」であったとは全く思いません。こうした国内の動きは村上さん本人にも伝わったようで、スピーチの中でも言及があったようです。よかったと思います。
さて、昨晩の村上さんのスピーチは会場でも拍手をもって迎えられ、この報道に対する日本国内の反応も好意的のようです。「あえて」エルサレムに出向き発言したこと。そして、イスラエルのパレスチナ人に対する軍事的介入や分離壁の建設などを批判するメッセージを村上さんなりの表現でしっかりと述べたこと。「立派なスピーチであった!」と高く評価されているようです。私も、(要旨を読んだだけだけど)いいこと言ってると思いました。壁にぶち当たってグシャッと壊れる「たまご」のイメージ。人間性を蹂躙する「壁」の力に対して、あくまで「たまご」の側に立つというメッセージはすてきなものだと思いました。
……しかし一方で、私は昨晩の村上さんは、ほとんど最悪の選択をしたのではないか? とも思います。
選択肢はいくつかあった。受賞を拒否する/しない。拒否しないなら、授賞式において政治的な発言をする/しない。イスラエルを批判する/しない。どれが正解だったかなんてわからないし、村上さんは自分の責任に基づいて言うべきことを言った、それは素晴らしいことだと思います。しかし、昨晩の「イスラエル批判」への万雷の拍手! エルサレムにおいてさえ起こった盛大な拍手。こんな醜悪なものがあるでしょうか? まさしく分離壁の向こうでなにもかも失ってただ生き延びている人たちがいる、その頭上に風に乗って響く賞賛の拍手。遠く極東の地で、「村上は立派であった!」と胸を撫で下ろすとき、なにか大切なことを忘れてしまっていそうで怖いです。私は誰を批判したいわけでもありません。私自身の問題関心に基づいて、今日の違和感を書き留めておきたいと思った。ならば、受賞を拒否すればよかったのか? それも最悪に近いのではないか? 村上春樹の毅然とした態度に世界中で拍手が巻き起こるだろう。
この世に不正がある。私たちは不正を憎む。見て聞いてすこし考えて、言う。船の上の出し物。一曲披露して拍手をもらう。
船は沖に向かい、土は見えない。
陸に戻ろうと、乗員たちに呼びかける人がいる、そうだそうだと拍手が巻き起こる。しかし船から飛び降りて一人泳いで陸を目指すこともできるはずではないか? 今日、2009年2月16日のこの瞬間。あなたや私にとって、「船から飛び降りる」ことが何を意味するか、私にはわからないです。多分、それぞれなにかやるべきことがあって、それは一人一人違うのかもしれない。少なくとも私は、何をすればいいのかわからなくて気分が悪いです。
【参考】
本エントリはid:toledさんが最後に*2、村上春樹さんのスピーチが実際に行われる前に書いたエントリの問題提起に、私なりの考えをメモしたものです*3。そのエントリが今は消えちゃってるので、ここにコピペしておきます。
さて、授賞式から一日が経過しました。
みなさん、どのような感想をお持ちでしょうか?
僕の評価は次の通りです。
まず、スピーチ原稿の質は、確実にスーザン・ソンタグよりも高いものでした。おそらく、練りに練って作られたものだと思います。
また、例のパフォーマンスにしても、なかなかのものであったと言ってよいと思います。
われわれの「要求」は、期待以上のかたちで実現しました。
さて質問です。
何かが変わったでしょうか?
答えは否、です。
というか、変わりました。
悪くなりました。
なぜならば、これに関わった人々が、すっきりしてしまったからです。
その人々は、数少ない善人で、またなおかつ実践家でした。
岡真理のような癒し系アイドルとは違います。
あなたがたは、地道な努力をして、運動に関与してきたのです。
さて、運動というものを腐敗させる要因の一つは、「ニセの達成感」というものです。
そもそもからして、スーザン・ソンタグの演説自体が、おそろしくぬるいものでした。
彼女は、エルサレム賞がイスラエル及びそのほか全世界における諸関係において果たしている機能を機能させる役割を引き受けました。
イデオロギーというのはそういうものです。
エルサレム賞とはなにか?
すこしネットで調べればすぐにわかることですが、イスラエルの中東における特殊性を証明するための制度と儀式です。特殊性とは、「民主主義」とか「自由」とか「寛容」といったようなことです。
さて、それらは、一見、現実の軍事力やその行使のあり方と矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし、その矛盾にこそ価値があるのです。
少なくとも現代の国家暴力は、ある程度ねじれたあらわれ方をします。
それはこのような論理を背景としています。
よきものがある。よきものは脅威にさらされている。脅威はよきものではない。したがって、よき戦術は通用しない。だから、よきものをまもるために、「あえて」わるくなる。
これは一人一人の個人のなかにある正当化のひな形でもあるし、また、集団内における「良心」と「無法者」の役割分担でもあります。これについては「永遠の嘘をついてくれ」というエントリーで詳しく説明しましたので、ぜひご参照ください。
背景は以上の通りです。
その文脈においてエルサレム賞は存在します。
ということは何を意味するでしょうか?
たとえば受賞者がエルサレム賞を拒否したり、授賞式において苦言をていしたとしましょう。
そのようなことを可能にするイスラエル社会とは何でしょうか?
そのようなリスクをおかしつつスーザン・ソンタグを選んだことに、どのような意図があったのでしょうか?
しかしそれでも、今回、ハルキは立派でした。
とりあえずほめてあげましょう。
そして、そのことはすっぱり忘れましょう。
また今日も、明日も、明後日も、今までの実践が続きます。
そして、それを少しレベルアップした自分がやります。
なぜならば、村上春樹を媒介することによって、われわれは自覚せざる得なかったからです。
いま、まさにここが「エルサレム」だということを。
街に出て、キョロキョロしてみてください。「壁」が見えてきます。
【参考2】
どれくらい胸いっぱいの愛を
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抱えたら僕ら 伝えられるんだろう?
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