「反日上等」について・応答メモ


ハイクにつらつらと書いてるうちに、先日のエントリ(「反日上等」について)では触れていなかったことなども出てきたので、一応貼っておきます。ブックマークコメントやコメントへの応答になる部分もあるかと思いますので、ひとまずこれをもって応答の代わりにしたいと思います*1

「同胞として受け入れて欲しいだけ」の外国人もいるよ、とか言うけど、本当に日本社会に虐げられ恐怖を抱き、「同胞として受け入れて欲しい」とも言えないまま怒りや戸惑いやつらい歴史を抱えつつ、それでも日本で生活してる外国人がいるわけでしょう。また実際に、明確に「反日」的な暴力行為に及んだ非-日本人もかつていて、そういう人たちのある者は逮捕されて運動体からも追われ、またある者は死刑判決を受けすぐに執行された。外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい」だけの人と、そうでない「反日」的な人がいるという見方そのものもかなり怪しいと思うけど、日本人が真に向き合うべきは「反日」の方だと思います。もちろんそこには慄然とするような隔たりがあって、日本人である以上、口で「私は反日だ」と言おうが言うまいが目糞鼻糞であるかもしれない。

例えば、ウチナンチュの中にも「日の丸を焼くのはやりすぎだ」「同胞としてうまくやっていきたい」という人は当然多くあるだろうし、当然のこととして、ヤマトンチュである私(実は「ヤマトンチュである私」などと沖縄の言葉で自分を規定してみせること自体がなんだか欺瞞的に擦り寄ってる気がして使いたくないのですが)が「日の丸を焼く/焼かない」でウチナンチュの間に線を引いてあれこれと論評するようなことはできない。そんな資格はない。だけど私の問題意識として、「日の丸を焼く」ことを非難し、「反日」と指をさそうとする人が多数派であるという状況であるからこそ、「日の丸を焼く」ウチナンチュの激しい怒りに向き合うことはできないだろうかと考えています。

これは何も別に「同胞として受け入れて欲しいだけ」の人たちの権利運動を否定するものじゃない。ただ、外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい/欲しくない」で線を引き、「反日」と目される人を遠ざけてしまいたくない。「反日上等」が、「同胞として受け入れて欲しいだけ」の人たちをゾッとさせる主張であるということはわかります。そして、私なんかが「反日上等」と言ったところで、本当に「反日」である人と連帯などできてないでしょう。しかし、そうした「反日」の思いを自分自身の問題として引き受けることは困難だけど、避けては通れない、一つの前提ではないかと思います。
http://h.hatena.ne.jp/Romance/9258646731166060463


このエントリに対して、id:PledgeCrewさんからreplyをいただきました。

在特会」の前のデモが標的にしていたのは、いったい誰だった?
なにかあれば、入国管理局のさじかげんひとつで、見たこともなければ、言葉もしゃべれない、友達も誰もいない、生活基盤もまったくない「母国」へ帰されようとしているのはどういう人たち?
不況になれば、いちばんに首を切られ、二度とくるなと言うがごとき念書まで書かされて、母国へ追い返されているのはどういう人たち?
他者支援の運動なら、なによりもいちばん立場の弱い人らのことをこそ、まっさきに考えるべきではないのか。
むろん「同胞として受け入れて欲しいだけ」の外国人もいるだろう。
だが、そこがいちばんの問題なのではない。
そもそも、外国人の間に「同胞として受け入れて欲しい/欲しくない」で線を引けなどとは、誰も言ってないし、そんなことは全然問題にしていない。
そこで線を引いてはいけないからこそ、安易に相手の言葉に乗って「反日上等」などというスローガンを掲げるなと言っている。
そういう最も立場の弱い人たちに配慮するという意識があったのかどうかをずっと尋ねているのだが、だれからもまだまともな答をもらっていない。

そういう配慮をしていたかどうかは、戦術なんかの問題じゃない。
そういうことが意識にも上っていなかったとすれば、それはその人の思想の問題ということになる。
そもそも、相手の掌にのらずに、あの「反日」なる言葉の愚劣さを暴露する方法は、ほかにいくらでもあるのじゃないの。そういうことをずっと聞いているのだけど。
http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9234070456252809577
http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9236550954659146924*2


以下は上記replyに対する返答です。

返事遅くなりましたが、実際に緊急行動の側でも微妙な政治判断の絡む問題に関しては賛同者の名前をあえて出さないなどの配慮は当然していました。それを踏まえたうえで在特会への対抗行動としていろいろな考えの多くの人が集まったわけで、有象無象の集まりとして健全であったと思っています。

また、「反−反差別暴力が当事者に行く」という問題意識は当然ありましたし、私のはじめのエントリにも書いてあります。
 
ですから、いしけりさんやあなたの懸念も当然理解できる、というかとうに話し合われていた事柄ではあるのですが、例えばあの場で「反日上等」を控えるべきであったかというのはそれほど自明ではないと思います。いしけりさんのコメントで確か署名集めしているときに日の丸うんこが来ると思うとゾッとするというようなのがありましたが、実際に署名集めのときに行ったわけではないわけで、そこらへんは具体的な現場ごとにアピールの仕方があるというのがまあ常識的なおとしどころですよね。なのに、「反日上等」「日の丸うんこ」は対抗行動では不適切だった、というのが「人が死ぬ」という重みまで伴って語られてるのは逆にどうしたことかと思います。
 
「配慮が足りなかったのでは」という批判であれば重く受け止めますしこれまでも今後も忘れてはならない点に違いないですが、いしけりさんの実務家としての説得力によってどうも個別具体的な運動論であるべき領域がイデオロギー的な問題にまで拡大されて否定されているような印象を受けます。それはあなたに対しても思うし、いしけりさんの多くの賛同者からもそういう印象を受けます。

いしけりさんが「おれにしかできないおれの実務」を語るに終始して、賛同者はお話しに満足して帰路につき、不正義(「人が死ぬ」というやつです)は依然アウトソーシングされたまま、「日本人」=暴力主体としての責任がスルーされていますよね。私が「反日上等」という言葉を通じて訴えたかったのは例えば、ノリコさんをおかわいそうな表象として消費しようとする動きに対して、日本社会の「息を吐くような差別」をむしろ問題にしたかったわけです。残念ながらいしけりさんの「おれの実務」は逆にそこを分断しちゃう働きをしてるように感じられてしまいます(杞憂だといいですが)。

いずれにせよ別にいしけりさんの主張の根本の部分と相容れないということはまったくないのにどうしてこう対立してるがごとき表象になっているのかがきもちわるいです。もう消えてしまいましたが私へのいしけりさんの返事は「声高には言わないけど『反日』はあり」だという風に読めましたし、それならそれで全然いいわけです。ただ「声高に言う人がいてはいけない」という点ではまだ議論の余地があるべきだ。と、そういう話です。
http://h.hatena.ne.jp/Romance/9236533548977172113*3


このあと、id:barikome*4さんという方からもまたご意見などいただきました。上記引用部で主要な論点は概ね出ているように思いますが、続くこともあるかもしれないので一応はてなハイクのURL書いておきます。上記引用部は全部ここからです↓
http://h.hatena.ne.jp/id/Romance


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特に気になったブックマークコメントへも応答しておきます。


id:isikeriasobiさん

外国人の声と無関係のデモだった?それなら反日もあり。だが、流れ弾が当たらないような配慮をまったくせずに、特権を自覚している、差別されている人ともに戦いたいと言われても額面どおりには受け取れない。

「配慮をまったくせず」というのは必ずしも実際通りではないですが、そう受け取られないように気をつけろということなんでしょうね。そこは重要な点だと思います。ところで、「額面どおりに受け取」ってもらうためにブログ外でのなんちゃらが必要になるとしたら、それはリテラシーの問題という気がします。実名でいろいろな活動を背景にブログ書いてる人と、私のような匿名の書き手に説得力とかに差が出ること自体は当たり前だし、甘んじて受けますが、なんだか特定の主張にだけ「リアル」「実感」が求められるような風潮は拒否したいですね。(脱線してすみません。)

id:inumashさん

彼らは同胞として迎えられることを望んでいる。そういう人たちへの現実的な影響を考慮せず、彼らの要求に自分たちの主張を結託させてしまうことをishikeriasobiさんは批判しているのだと思うが、これは回答になるのか?

上にも書いていますが、植民地主義的暴力主体としての日本人が、「同胞として迎えられること」を望んでいるか否かで外国人を線引きすること自体に危うさがあると思います。外国人問題を語る際に「同胞」という言葉を使うのは、私にはすごくためらわれるのですが。

id:kmiuraさん

マルコス副司令官最高。でも”反日”土俵に乗るのはよくない。マルコスはおそるべき多様性を提示しているのであって、「反日かどうか」といった類の明快さ、単純さを皮肉っている

「多様性」という言葉は、非対称な関係性をうやむやにする方便としても用いられてきたのだから、この文脈で持ち出すのはあまりに不適切だと思います。マルコスの言葉の趣旨と鑑みても。「「反日かどうか」といった類の明快さ」という風な裏返した書き方もよくなされる感じがします。

*1:手抜きみたいで申し訳ないですが、ハイクで断片的に書いたものをもとに反応をいただくような展開もあり、それをそのまま抜き出しておくのもいいかなと思ったので。

*2:ハイクでは二回の投稿に別れていましたが、ここではまとめました。

*3:引用に当たって、一部誤字修正しました。

*4:現在はid削除されたようです。