人権教育に問題&人権教育の問題のせいにしたがる現象


人権教育の問題点 - Whoso is not expressly included
http://han.org/blog/2010/02/post-123.html


この記事のブックマークコメントがひどいので手短かに。


差別は全てが悪い心の問題でなく構造的に「悪気なく」起こる。その通りでしょう。だとしても、差別事象が悪いものであるということ自体は揺るぎない前提であるはずなので、生ワクチンやらで「差別事象を最小にするアーキテクチャ」かなんかを構想しようがどうしようが「心の問題」としての視座も同時に持ち続けなくてはいけないと思います*1。構造的差別を話題にするとき、そこで指摘される「意図せぬ差別」は、その構造における特権者にまさにその特権の有り様を自覚させ、差別構造への加担と責任について思いをめぐらせるものであるはずだし、そうでなくてなりません。あえて「そうでなくてはならない」とまで書くのは、このような構造的差別を問題にするときに、その「専ら悪い人が差別するわけではない」という文句は全く逆の効果も持つからです。つまり、「これは構造の問題であって、私に関わる倫理の問題ではない」というような。これは、差別事象とそれに関わる個々の人間主体を分断的に捉えようとする点で全く間違っているし、そうした分断がなされてしまえば、結局は、差別事象についてそれを(構造的に)取り巻く社会の問題として捉える視点も持ち得ない。これについては、差別事象に対して「客観的な観察者」の立場をとろうとした場合に、このような誤りがでてくるのではないかと考えていますが。いずれにせよ、「差別は専ら心の問題ではない」と言ったところで、しかし個人個人が社会の中で関わる際に「差別はいけない」という前提を持たなければどうしようもないし、「差別はなくならないだろう」という冷静にして客観的(?)な分析だけを投げ出して、個人としての「差別心」に対する内省をやめてしまうとしたらこんな最悪なことはないです。


ともかく、上に挙げたエントリは前半部までは構造的差別のわかりやすい説明になっているのですが、構造的差別の議論を「道徳教育」への批判に用いる箇所では上記の誤解を招きやすいまとめかたをしているし、ついでに言えば、この日本社会におけるアクチュアルな問題としての在日韓国・朝鮮人差別の問題は、構造的差別という視点をとるにせよ(とらないにせよ)「日本人問題」と呼ぶべきものなので、「在日コリアンが怒ってますよ」とダシにする必要がないのと同じ分だけ、愛着やら実感やらとも関係なしとしていいものです。「愛着を持っている在日コリアンもたくさんいる」ということは、「日本人は朝鮮半島と向き合わなくていい」を全く意味しないということは確認しておきたいところですね。そして特権者が「実感」できないところで、まだ加害の歴史は継続している。という問題意識がなければ、歴史上何度も起きていた「命がけの反差別闘争」とでも呼ぶべき出来事は、まさしく「外部からの」意味不明な犯罪行為として扱われるだけだし、現にそういう認識が大勢のように思います。つまり、差別の継続です。


最後に、「人権教育の問題点」というタイトルで、重要な視点だなと思った記事を引用しておきます。

ある学校で、人権教育をおこなう。どのような人権をおしえるのか。どのような教育にするのか。それを議論することも大事だ。けれども、学生たちが その学校に かようようになるまで、さまざまな選別を通過している。学生たちは、選別に勝利したものたちだ。
(中略)
統制のきくひとたちが参加する学校。そこで なにが おしえられようとも、人権侵害を前提とした社会システムに ほかならない。学校で人権をおしえるということは、矛盾をおしえるということ、ホンネとタテマエをおしえるということ、人権をいかに侵害するかということをおしえることにしか なっていない。それは、いかに教育内容をかえようとも、おなじことである。

人権教育など、ありえない。教育は人権侵害を前提にするからだ。統制を前提にしない教育なら、強制的に授業の時間が決定されていてはいけないし、場所が勝手に きめられていてはいけないし、おしえられることが学生との相談なしに決定されていてはいけない。


人権教育は、ありえない - hituziのブログ 無料体験コース
http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/1cd8da334076a8e2fdf33289be43d793

*1:構造的差別を話題にしつつ、「心の問題にするのも不毛だし、差別があることを前提として差別事象を最小化するアーキテクチャ」うんぬんやりだすと、例えばハンセン病(元)患者たちに対する隔離政策を批判できなくなっちゃうなんてことも……?