規範化された「幸福」への反発は嫉妬ではない


中出しハッピー! - ナイトシフトという記事がありました。

会社の後輩が、子どもができたことをきっかけに結婚したという話。彼女は子どもができにくい体質だったけど、幸運にも授かることができた。子どもができたことを報告すると彼女の両親は泣いて喜んだし、結婚式では新郎新婦とも幸せをかみしめて号泣。そんな二人を祝福したい、よかったね! というエントリ。

このエントリには「いい話」タグのブクマが多数つけられたんだけど、こういう反応に対して疑問が出されました。

「中出しハッピー!」は本当に「いい話」か? - blog.yuco.net

はてなブックマークでは「いい話」タグが40個以上もついていてお祝いムードですが(ほんとにいい話か?という疑問も出ていますが)、私は男性側にだけ都合のいい話だと思いましたし、そういう方向で盛り上がってしまうはてブって男性社会だな〜と思いました。

良かったと言えるのは、子供を欲しがっていたカップルに子供ができた、その一点だけです。

はてブコメントでもすでに何人かの人が指摘していますが、女性は妊娠しづらい体質だったのだから、いつまで経っても子供ができない可能性は十分ありました。たまたま子供ができたからよかったものの、できなかったらどうするつもりだったのでしょう?

http://blog.yuco.net/2008/10/nakadashi_happy/

私はこれを「男性社会」の一言で済む問題だと思うわけでもないけど、yucoさんの問題意識に共感します。id:nightshiftさんの元エントリには、ただ幸せなエピソードが書いてあるだけじゃないかと思う人も多いだろうけど、そうではありません。「子どもを授かった! 良かった!」ということは、もちろんそれ自体として良いことだし、祝福されるべきことだと思います*1。しかし、元エントリにおいて「子どもを授かった」というハッピーを際立たせる要素として、「彼女はもともと子供ができにくい体質だった」という前提条件が挿入されています。だから、「中出しハッピー!」という、幸運で幸福なカップルの逸話が「いい話」であることの本質は、ただ「子どもを授かった」ということにではなく、「子供ができにくい体質」というアンハッピーを乗り越えたことにあります。yucoさんは、「中出しハッピー!」が「いい話」であるための前提、すなわち「子どもができにくい=アンハッピー」という前提が当然のように共有されていることに違和感を感じているのではないでしょうか? そして、「それでも子どもができた」ということで両親や当人たちが安堵するような物語に対して、「できなかったらどうするつもりだったのでしょう?」と疑問を述べているわけです。

もちろん、「できなかったらどうするつもり」なんてことは誰にもわかりません。書いてないし、当人たちにも経験されていないことだから。もしかしたら子どもができないままでも結婚したかもしれない。ただ、元エントリの下記の部分が気になります。

きっと2人は、もっと前から結婚したいと思ってたんだと思う。でも、彼女は自分に子供ができないことで躊躇し、彼女の両親も負い目を感じてたんじゃないだろうか。後輩は、それでも構わないと考えていただろうけど、そういう周りの気持ちが分からない奴じゃない。だから一生懸命に中出しし続けた。5年間ずっと。

http://d.hatena.ne.jp/nightshift/20081016/1224155161

ここでは端的に、子どもを期待する「周りの気持ち」、彼女の両親に負い目を感じさせる「周りの気持ち」が無批判に前提されています。後輩カップルは幸運にも子どもを授かることで、「結婚とはかくあるべし」「家族とはかくあるべし」という「規範」と涙を流しながら熱い抱擁を交わすことができたわけです。この話を単に「いい話」と受け取ることもできるでしょう*2。しかし、ここで無自覚に内面化されてる規範意識や前提条件を批判的に捉え直すことはとても重要なことです。その意味で、yucoさんの「できなかったらどうするつもりだったのでしょう?」との疑問は、極めて適切であると思います。


yucoさんのエントリへのトラバとして、下記のようなエントリも上げられました。
中田しハッピー婚に嫉妬する「生めない不良機械」 - なぷさく

単に子供に恵まれないというただそれだけのことで、その親も周囲も大変に気を使う。たとえ親としては実際にもう孫の生誕に期待はしていないとしても、プレッシャーになってはならないと思って、親戚や近所の子供の話は避けるように配慮するし、ベビー用品のTVCMに顔がこわばる思いをする。当然そんな親の気づかいを本人たちも見抜けないはずはなく周囲に気を使わせてしまったことでますます夫婦自体も苦しむ。

だからこそ苦労して子供ができたことに対する祝福は限りないのだが、どうやらその裏を読んでしまう人がいるらしい。しかもそれを自分の中にとどめておくならまだしも、あろうことか

「無邪気に祝福するなんて、子供のできない夫婦に対する気づかいが足りない」

などと言い出してしまうのだ。何を言っているんだと呆然とする。その考えの奥底にあるのは他人は自分に気を使って当然という傲慢な認識である。どこまで他人に気を使わせれば気が済むのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/napsucks/20081018/1224339257

これは極めて悪質な反転です。「裏を読んでしまう人」という点において、このエントリそのものが最もアンフェアな裏読みをしているように感じます。yucoさんは「子どものできない夫婦に対する気きづかい」などは問題にしていません(多分)。「苦労して子供ができたことに対する祝福」に内包されている規範とその抑圧こそが問題なのであって、「親も周囲も大変に気を使う」世の中そのものに疑問を呈しているわけです。こうした疑問が、「他人は自分に気を使って当然という傲慢な認識」とか「嫉妬」の一語で片付けられるとしたらこんなに不当で恐ろしいことはないと思います。


私の考えでは、「ハッピー!」はどこまでも肯定されるべきです。「あぁ いいな!」と表明すること、美しいことやもろもろの「善」は、それ自体としては決して否定されてはならないものです。しかし、そうした輝かしいものによって影の部分に追いやられるものが必ずしも「悪」ではないし、否定されるべきでもないということです。ある特定の生き方/あり方が「理想」や「幸せのモデル」として捉えられるようなこと自体は別に構わないと思うし、勝手にやればいい。しかし、その「理想」に沿わないあり方が否定されるのなら、そのときはその「理想」ごとぶっ壊すべきです。

私はこうした観点を踏まえた上で、「規範」という言葉を、排他的な契機を孕んでいるものとして悪い意味で使っています。強く美しく健康であること自体には何の問題もないし、それ自体として素晴らしいことです。しかし、強さや美しさが一定のあり方を条件とし、なおかつ排他的な「規範」の内に独占されるとき、そうした「強さ」や「美しさ」はもうそれ自体が罪であると言えるでしょう。「規範的なあり方」そのものに無自覚に寄り添うことの暴力性には常に警戒するべきだと思います。


と、ここまでの話を踏まえた上で、「乳がん撲滅ピンクリボンキャンペーン」の問題に触れたいのですが、長くなるので別エントリにします。


【追記】
すでに同じようなことを書いている良記事がありました。
「いい話」の陥穽 - raurublock on Hatena

*1:元エントリにあるけど、「できちゃった結婚」を「ダブルハッピー」と言い換えるのはいいことだと思います。「できちゃった」っていうのはなんか嫌らしいから。

*2:子どもができたことを喜んで悪いということはありません。