ワイドショー的関心という無関心
三浦和義元社長が自殺 移送先のロサンゼルスで
81年の米ロサンゼルス銃撃事件に関与した疑いで米自治領サイパンで2月に逮捕された元会社社長、三浦和義容疑者(61)=日本では無罪確定=がロサンゼルス市内で自殺を図り、死亡した。ロサンゼルス市警から10日午後10時(日本時間11日午後2時)ごろ、現地の日本総領事館に連絡が入った。
(中略)
三浦元社長は妻の一美さん(当時28)を殺害したとして日本で起訴されたが、03年に無罪が確定。今年2月、同じ事件で殺人と共謀の容疑でサイパンで逮捕された。
三浦元社長の弁護側は、同じ罪で2度裁けない「一事不再理」の原則に反する逮捕だとして、逮捕状の取り消しを請求した。ロス郡地裁は先月26日、殺人罪については一事不再理を認めたが、共謀罪は弁護側の主張を退け、有効とする決定を出し、三浦元社長は10日、ロスへ移送された。
http://www.asahi.com/national/update/1011/TKY200810110155.html
いわゆる「ロス疑惑」について私はあまり詳しくないし、当時週刊誌等で報道が過熱したとかいうことも伝え聞く範囲でしか知らない。しかし、日本で長年の審理の末に無罪が確定した者が、外国政府によって再び逮捕されたということ。そして、その当人が留置場で自殺してしまったということ。単純に、こんなことがあっていいとは思えない。これはとても恐ろしく、また悲しいことだと思う。
三浦さんは、1審で有罪判決が出たものの、2審で無罪となり、最高裁で無罪が確定した。*1
2003年に無罪確定したときのことは覚えてる。「世間はびっくり!」というような報道だった。多分、事件当時の報道の中で三浦和義という人物はかなり「うさんくさい」「犯人に違いない」人物として、「疑惑の人物」として報じられていたみたいだから、2003年の時点でもその印象はかなり共有されていていたんだろう。「疑惑の人物」の無罪にみんな驚かされたわけだ。しかし、三浦さんが実際に「うさんくさ」かろうが、当時の報道でどんなに「疑惑の人物」として語られていようが、日本の裁判所は有罪にするだけの確たる証拠を得られず、最終的に無罪としたのである*2。真実は知らない。しかし無罪が確定した以上、三浦さんは殺人者ではないし、むしろ冤罪被害者だったのではないか?
といっても一方で、この三浦和義さんのケースこそ、「無罪=冤罪ではない」と言った場合の、かなりイメージしやすい実例になっていたことと思う。つまり、(真犯人などが出てきたわけじゃないから)三浦さんは「無罪(not guilty)」ではあったが「無実(innocent)」ではない。裁判では無罪になったが、「疑惑の人物」としてのイメージは根強く残ったのである。しかし、無罪の者に対してそんなイメージを抱き続けることは全く不当なことだ。もし仮に真実を知ることができて、そのとき三浦さんが「クロ」だったとしよう。だとすれば、最高裁の段階で確証がなかったとしても、以後「グレー」であると看做されることには彼自身に負うべき責があるのだから仕方がない。というようなことを言う人があるかもしれない。しかし、それにしたって三浦さんが「クロ」であるかを争う問題なのであり、いずれにせよ「あやしいからあやしいんだ」以上のことではないのである。もちろん、「真実」は裁判機関の判断そのものではない。だからこそ再審請求が認められているわけだが、再審請求は有罪判決を受けた者の利益のためにのみ行われるものだ*3。無罪確定者に対して、なおも仮構的な「法廷外の真実」を押し付けることなど許されないし、それは不当な人権侵害以外の何ものでもない。
とは言っても、それが「三浦和義をうさんくさいと思っている人もいる」というだけの話ならまあどうでもいいことだ。実際、三浦さんが出所してから今年サイパンで再逮捕されるまではそんな感じだっただろう。三浦さんは冤罪問題について活動していたし、現実として権利が制限されていたわけでもない*4。しかし、今回の件で最も危険で問題だと思うのは、サイパンで再逮捕された際に、日本政府が三浦さんを守らなかったということだ。「守らなかった」どころではない。抗議など全くしなかったばかりか「捜査に協力する」という態度まで示したのだ。これは明らかにおかしい。そもそも、日本での裁判の際に(当然)ロス市警に協力を求めており、その証拠も含めての無罪判決だったはずだ。「一事不再理」の原則は全く無視され*5、日本における長年の審理の末の司法判断も踏みにじられたのに、日本政府は再逮捕を容認するばかりか唯々諾々とそれに付き従った。ここにおいて日本政府は、三浦さんの人権を制限したと言えないだろうか。つまり、三浦さんを(無罪確定後でありながら)「グレー」な人物として扱い、十全には権利を尊重しなかったのである。
また、さらにもう一つの問題は、事実上「共謀罪」によって追い込まれたことである。上の記事にもあるように、殺人罪には「一事不再理」が適用されたが、新たに共謀罪が加わっていたために逮捕されたのだ。共謀罪の問題点についてはこれまでもいろいろ議論されているので省略するけど、日本で果たせなかったカタキをカリフォルニアで、それも「共謀罪」で果たそうとしたとすればこんなに不当なことはない。
三浦和義さんは、長年の審理の末に無罪判決を得て、冤罪問題について活動していた。しかし、日米の憲法に謳われている原則をごまかし的にすり抜けたような手法で再逮捕されたのである。こんな絶望的なことがあるだろうか? 今さら再逮捕の不当性を言い立ててももう遅い。「疑惑の人物」なるイメージがマスコミ主導で不当に植え付けられたとか、そういうことを言いたいわけではない。しかし、事件が注目を浴びる中で戯画化された当事者は、自殺をしてもなおそのイメージの範囲内でしか見られていないように感じる*6。再逮捕の際に抗議声明を出したりした市民団体は複数あるし、そうした活動に関わった人も少なくはないだろう。それでも、不当逮捕をも劇場型犯罪の続編として眺めているだけの人が大多数だったのではないだろうか。私も含めて、そうした大多数の人々が、三浦和義さんを見殺しにしてしまったように感じる。忸怩たる思い、というか、私自身の不明を恥じつつ、ひどくやりきれない気持ちがします。