家でやろう


planetカラダンは「反マナーポスター」の立場です。
それは、公共空間からマナーポスターなるものを全て剥がし、公共性に対して主体性を回復させようという立場であり、ただ単に「もっと自分を大切にしよう」「自分の良心を発見しよう」という運動でもあります。
以下、駅貼りポスターを例に詳しく説明します。

迷惑乗車とは

迷惑行為ワースト1は3年連続で「座席の座り方」――。
日本民営鉄道協会大手私鉄16社による「駅と電車内の迷惑行為ランキング」のアンケート結果(700人が回答)を発表した。

それによると、平日と土・休日の全時間帯を通じ、迷惑と感じているのは「座り方」で12.9%。わずかの差で「携帯電話の使用」が続いた。4年前まで3.7%で8位だった「ヘッドホンステレオの音漏れ」が11.3%と3位に浮上した。次いで「乗降時のマナー」「荷物の持ち方、置き方」「電車内で騒ぐ」「女性の化粧」の順だった。

「泥酔状態での乗車」は全時間帯で12位だが、午後10時以降になると20.6%で断トツだった。

マナーの改善度について、46%が「変わらない」と回答したが、「以前より悪くなった」は「改善された」の2倍にあたる31%と、依然として迷惑乗車が後を絶たないことを裏付けた。

(ソースはとっくに消えたけど2006年12月の記事)


「迷惑乗車」という言葉があるらしい。
それはこの調査で挙げられている限りでは、「座り方」「携帯電話の使用」「ヘッドホンステレオの音漏れ」とか「女性の化粧」などを指すようだ。

電車の中でスナック菓子をボリボリ食べている馬鹿女がいました。
てめーの家と勘違いしてるんでしょうか

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111415446

先日、ほぼ満員電車で座っている女性がバッグを開けて(開けたまま)
あげせんを袋から素手で取り出し、ぼりぼり食べ始めました。
「あげせん」です。もちろん、手に揚げかすがつきます。それを両手でパンパン払います。
カスは飛び散り、自分のバッグにも周囲にも・・・。
(中略)
かなり常識にかけているなと思いました。
皆様、どう思われます?はっきり言ってお煎餅は臭います。

http://qa.moura.jp/qa3914167.html?check_ok=1*1


最近、「迷惑乗車」に「車内での飲食」が加わりつつある。
実際、東京メトロのマナーポスターでは、こういうのがあった。

においも迷惑!
東京メトロ2007年10月)


食べ物のにおいは迷惑なのだそうだ。

新幹線に乗った途端靴を脱いで前の座席の背につっぱって伸ばすか、脱いだ靴の上に足を置く中年以上の男性が多い。それ人の足が臭いと最悪。
特に折角駅弁を買ってこれから食べようとするときに、そのえもいわれぬ臭いがプーンとすると、美味しい弁当も食欲減退!
(中略)
確かに、どうも、新幹線を「自分の家」と勘違いする人が非常に多い。
中年男性が嫌われるのは、きっとこんなマナー違反の積み重ねなんじゃな。

http://ashikusa.jp/archive/2005/124.html


そして「におい」ということで言えば、足の臭い人が車内で靴など脱ごうものなら、それは完全に「迷惑乗車」だ。
(しかし新幹線の中なら、弁当のにおいは問題にならないらしい。)


電車の中は公共の場だから家ではない。だから、家の中で許されても電車の中では許されない行為がある。
それはものを食べることだったり、(大きな音量で)音楽を聴くことだったり、また、化粧や携帯電話の使用などがそう。
また「座席の座り方」にも細心の注意が必要。
それだけじゃない。
場合によっては電車内で口をきくことや、息をすることも問題になるし*2、雨の日に傘を持ち込む際にも、他人の衣服(これはすでに雨で濡れているのだが)を、あなたの傘でさらに濡らしてしまうことは許されない。*3


だって迷惑なんだもの。


不快感至上主義者の日々の声を集成したものがマナーポスターである。
そこでは「思いやりの心をもちましょう」との標語のもとに公共空間における「典型的な悪」が羅列され、
ポスターを見た者は排除すべき迷惑分子の行動パターンを学ぶ


迷惑乗車とやらを目にした「良識ある」不快感至上主義者は言う、
「公共の場所を自分の家と勘違いしてるんじゃないか?」


そんな彼らの思いに応えて東京メトロが送り出した新作ポスターがこれだ!!!

お客様にマナーについてご理解いただき地下鉄を快適にご利用いただくため呼びかけとして昭和49年から行っています。
平成20年4月から平成21年3月までの1年間、「○○でやろう。」を共通フレーズに月替わりで展開しています。

http://www.tokyometro.jp/anshin/kaiteki/poster/index.html

家でやろう


今月の標語は「家でやろう」。だから、このポスターのイラストには「家ならいいけど車内でやっちゃダメなこと」が描かれてるはず。
そのつもりでイラスト見てみると、
・ダボっとしたパーカーとカーゴパンツの兄ちゃんが
・左手にスナック菓子の袋
・右手で雑誌
・足を投げ出し、足下には空き缶



何がダメなの?


スナック菓子が匂うから?
雑誌のグラビアがエロいから?*4
詰めればもう一人座れるから?


もちろん、そうしたことを「迷惑だと感じる」ことはありうるし、それを表明する権利は誰にでもある。
しかしそれはあくまで個別事例として調停を目指すべきであって、一般化してポスターに掲示すべきではない。
マナーポスター自体がある種の権威となり、そうした調停の気苦労を緩和する装置として働いている以上、
マナーポスターなどというものは即刻やめるべきだ。


また、マナーポスターに載った行為が「迷惑行為」として公認される以上、それは(人によっては)従来容認できた(かもしれない)行為を「容認してはならない」と掲げることだ。
だからマナーポスターは「思いやりの心を持ちましょう」の標語をもって「さあこいつらに腹を立てたまえ」と煽る役割を果たしている。


マナー違反を糾弾する不快感至上主義者たちはいつも多数性に安住し、自分たちこそ道徳的に正しく、社会的正義の側にあると信じて疑わないわけだが、一言で言えばそれは誤りだ。
彼らの道徳的自己欺瞞を見事に捉えた秀逸なポスターがある。(これも東京メトロ

わたしはゴキゲン
まわりはフキゲン
東京メトロ2007年5月)

所詮マナー啓発なんてものは、悪意のないゴキゲンに対して勝手に腹を立ててる醜悪なものでしかないということがはっきりと示されてる。フキゲンが正しく、ゴキゲンが悪などということがあり得るだろうか?


道徳的な「善さ」が不機嫌などという悪感情の中にあるはずがない。
「善さ」一般について考えてみればすぐにわかる。健康で楽しくて明るくてご機嫌なのが「善さ」というものなのであって、仮にも「道徳的善」などという善さの極みにあるものが、狭量で陰湿で不機嫌な連中と関係あるわけないし、そんな醜い行為が正義として語られる事自体が完全に誤っているのだ。
「私は不快だ」から「正義」を紡ぐことは絶対にできない。


「迷惑」などというものは道徳に関して常にネガティヴな要素でしかないのだから、迷惑をかけた人/かけられた人の二者の関係において相対的に現れているのは「ゼロを下回った道徳性=非道徳」でしかなく、迷惑行為を通じて「高い道徳性」を表現することは不可能なのだ。
(話はそれるけど、これは犯罪被害者も同様。犯罪被害者がその苦悩から道徳的な何かを獲得することはあるかもしれないが、被害者性そのものとは全く関係ない。)


「公共の場所を自分の家と勘違いしてるんじゃないか?」
違う。勘違いしているのはあなたたちなのだ。
公共空間はあなたの家ではない。だからこそ、多様な他者との出会いがあり、その中にはあなたを不快にさせる人もいるのだ。
公共空間にプライベートの延長を持ち込むことが「マナー違反」なら、あなたもまた重大なマナー違反を冒しているのだ。
だから「家でやろう」とのコピーに感心するなら、あなたもまた家にいる。


公共の場では異質な他者と出会うのが当然だ。そうした異質性を排除しようとしてもそれは終わりなき戦いになってしまうだろう。
良識の座を不快感至上主義者たちが占めるならば、電車内のありとあらゆる所作がマナー違反糾弾者のまなざしで常にチェックされ、
何気ない行動は突然、「私は迷惑だ」と吠え立てられる。
「不快」を正義の源泉にしようとしたところで、出てくるのはこんな世の中でしかない。


不快感至上主義は焦土しか生み出さない。
「迷惑だ」と吠えることを止め、異質な他者を理解しようと努め、共存を目指さないといけない。
マナーポスターを全て剥がし、本当に他人を思いやることについて考えよう!


うっかり着信音を鳴らしてしまった人にみんなで舌打ちをする社会は異常だ!
携帯電話を使いたい人のニーズを理解し、車内でもごく普通に通話できる世の中が「他人を思いやる」社会だ!

不快になったら戦おう


じゃあ、不快になっちゃいけないの? 迷惑なことされたらどうすればいいの? と思うかもしれない。
不快になっていいし、迷惑行為には断固として怒るべきだ。


私がここで問題にしているのは、「不快感」の排除を共通の前提にしようとする発想であり、個別の具体的な「不快感」に先立って「一般的な迷惑行為」などというものを決定しようとする危険性であって、迷惑だと感じたその瞬間はどこまでも尊重されていい。


隣の人がゴキゲンで音楽を聴いている。漏れ聞こえてくる音が耳障りで読書に集中できない。
せっかく面白いところにさしかかってたのにもう台無しだ。うるさい、音量を下げろ!
と、思ったら要求すればいい。
しかしその際に、「ほらポスターにも書いてあるでしょう。音漏れはいけないんですよ。」などとは口が裂けても言ってはいけない
あなたに静かな車内で読書する権利があるなら、隣の人にも通勤時間の憂鬱を音楽で和らげる権利がある。
だからその時はもう、自分の責任において権利闘争をしかけるしかない。


でも、いざ言おうと思ったら「イヤな思いさせちゃうな、気が重いな」と思うかもしれない。
その「気の重さ」が重要なのだ。それが他者を感じることであり、それが自分の権利と他者の権利を擦り合わせるということなのだ。
公共道徳はその瞬間に初めて立ち上がってくるものであって、「お客様の声」をいくら集計してもそんなものに道徳性は微塵もない。
他者に何事かを要求していく、対話していく過程においてはじめて道徳が立ち現れ、あなたを道徳的にする。
しかし繰り返すようだが、ここで弱気になってマナーポスターの権威にすがり「私が正しいんだ」と思って気を楽にしようとしてはいけない。
その瞬間に権利闘争は単なる抑圧に姿を変え、道徳性も消滅する。

*1:No.16の回答に対するお礼は必見

*2:息が臭いときはね

*3:http://f.hatena.ne.jp/Romance/20080420084235もしくはhttp://f.hatena.ne.jp/Romance/20070530191932

*4:プロレス雑誌っぽくも見えるんだけど