光市死刑判決に快哉を叫ぶ人たち

1006 学名ナナシ :2008年04月22日 19:58
お疲れ様でした、じゃなくて
ぜひ国会議員に立候補してほしいな。
自民でも民主でもよろこんで公認してくれるんじゃないかな。

犯罪被害者の権利を守るための国会議員が絶対一人は必要だと思うし、
ほとんどの国会議員よりも優れた人物だと思う。

http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51282196.html


このスレの流れにすごく違和感を感じます……。
このニュース関連のネットの反応があまりにも予想通りなので、胸が苦しくてなかなか読めないですね。

私も、本村氏を貶めたい気持ちはないし、当事者だけが発することのできる実感のこもった言葉は、それはそれとして尊重されるべきだと思う。
しかし、ここまで被害者性が聖化される状況というのは行き過ぎではないか……。

ここ最近、「死刑制度廃止」の立場を表明すると、「被害者の気持ちも考えられないクズ」とかいう反応が増えた。
犯罪被害者にそれなりのケアが必要なのはわかるけど、犯罪被害者の人権保護になぜ加害者の死刑が直結するのか全くわからない。
仇討ち感情を公の場で露にすることが賞賛され、死刑判決の慣例的な枠を拡大してまで元少年を死刑とした司法に「正義がある」のだという。
結局、ここで働いている「正義」感覚って排除の論理でしかない。
社会の異物とされた人間はもう排除されるしかないという世の中に向かっている。


朝日記者の質問が問題になってるけど、あの質問は当然だし、質問自体が叩かれる風潮、「俺たちの祝祭的ハーモニーを乱すな!」には本当に恐怖を感じる。
(ここのところは本村洋さんにその質問をしないで、いったい何を聞くの?に同意ってこと)


不快感至上主義者が「私が迷惑だ」と叫ぶことで、公共の場において有利な立場を得ようとし、また往々にして尊重されてしまうという現状にとても窮屈さというか不健全さを感じていたけど、この「被害者性の聖化」というのも、この傾向の一極にあるのだろう。
今や不快感至上主義者は多数派だから、本村氏のような人物は歓迎される。
凶悪犯罪の被害者として直ちに正義の使者となり、不快感至上主義者たちが好む「排除の論理」の極北である「死刑」を声高に叫ぶ態度はあまりに時代に合致していた。そしてそこでは弁護団すら「悪の一味」とされてしまった。


一番最初に挙げたスレが気持ち悪いのは、殺人を憎み、被害者に同情する一方で、死刑判決を慶賀するという、「人道」へのねじれを感じるからだと思う。


人道的であるとはどういうことか?
私なりに簡単に言えば、「人を人として尊重すること」だと思う。
これは当たり前のようで実は難しく、世界のどこを切り取っても、「人間扱いされていない」人がいくらでも存在する。
今の日本で言えば、この光市の加害者少年は全く人間扱いされてないし、オウム信者やホームレスや、なんだか迷惑な感じの人とか、容易に「人間以下」だとみなされる。
オウム信者は転居先で「出て行け」の住民運動を起こされ、ホームレスは寝ているところを殺害される。
実際には、オウム信者と住人の交流が実現した例もあるし、ホームレスと住民の間にいい関係が築かれている実例も少なくない。
でもあんまりそういうのは報道もされず、マスコミには「モンスターペアレンツ」だとか「モンスターペイシャント」という言葉が並ぶ。


異質な他者とわかり合うことをあきらめ、即座に相手を「モンスター」扱いすることで良識の座に留まろうとする。
そうした傾向の象徴として、この光市の判決がある。まさにこういう時代なのだということがはっきりと確認され、非常に重く苦しい気持ちです。
普遍的な「人道」への敬意から活動していた弁護団すら世間は許さなかった。


死刑賛成が今や9割だそうだけど、この日本の多数派が自認してる「正義」がひどくグロテスクで恐ろしいです。


あっけらかんと「まあ死刑でいいよ」と言える人は、犯罪や過失を、自分とは全く関わりのない異世界の出来事だとでも思ってるんだろうね。


別に殺人者を持ち上げたいわけでも、被害者を貶めたいわけでもない。
しかし、犯罪者だろうがテロリストだろうが同じ人間だし、全ての人間が犯罪性と地続きであるという事実こそが、あらゆる人間事象における根本問題であるはず。
その前提が必ずしも共有されていない。
人は誰しも野蛮性を秘め、逸脱への芽を持っているんじゃないの?
一方的に断罪を叫びながら、自身の野蛮性について全く反省しない自称「良識派」の皆さんの、その口ぶりにこそ極めて野蛮で残酷な心性が現れているのに。
歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ってこういうことを言いたいのかも。
正義を自認しただ断罪を叫ぶ善人どもより、過ちを契機に人間事象の根本と向き合った悪人の方が、よっぽど極楽浄土に近いんだよ。
当事者でもないのに被害者感情とやらを振りかざし、安易に死刑や残酷刑を望む自称良識派どもは、そもそも死刑存廃論議のスタートラインにも立ってない。
だって、「人道」という基点自体がないから。
ただ強権に心寄せながら野蛮性を全開にしてるだけで。


欧州連合EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人に当てはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。

http://www.deljpn.ec.europa.eu/union/showpage_jp_union.death_penalty.php


カントもヘーゲルも死刑を否定しなかったし、欧州の知的伝統に「死刑反対」があるわけではない。
なのになぜ欧州は「死刑廃止」という理念を選択することができたのか。
これをただ国民性の違いとかそういうレベルに還元してしまいたくない。