自由の危機をもたらす無(?)邪気な「愛国」議員とか

「いやいや『言論の自由』とか『表現の自由』なんて関係ない。迷惑かけちゃダメなんだよ」

立川反戦ビラ

立川反戦ビラの最高裁判決は、ここで読めます。
簡単に要約すれば、「ビラの内容とか思想はどうでもいい。管理人がダメだと言ってるところに入るのは違法だし、住民の平穏も侵害してるから有罪」ってこと。

先日の日記でも書いたけど、管理人がダメだと言ってたらこの程度のビラも「迷惑行為」として排除できてしまうのが今の日本。

映画「靖国

靖国」上映中止騒ぎとか、「またいつもの自己検閲かー」と思ってた程度だったけど、ちょっと見過ごせない動きが出てきた。


「無断撮影」がどうの、とか、刀匠が出演シーンの削除を求めてるとかいうアレね。


制作過程において違法性ともいうべき手抜かりがあったと声高に叫んで「靖国」公開を阻もうとしてるみたいなんだけど、撮られた人が「やっぱり私のところは使わないで」と言ったり、たまたま写りこんだ人が「俺の肖像権がどうの」とか言い出したからって、いつも全部それを呑まなきゃいけないってことはないと思うんだけど。
そんなことがまかり通ったらドキュメンタリーはもちろん、あらゆる映像作品が簡単に潰されちゃう。写真もそう。


写真家修行中の私の友人も「最近は街でスナップ一枚撮るのも盗撮扱いの風潮があってやりにくい」って言ってたんだけど、
肖像権は肖像権で尊重されるべきにしても、あんまり行き過ぎると「もうみんな目出し帽の着用を義務にしたら」っていうバカバカしいことになるよね。


「いや、そんな極端な話はしてない、刀匠を騙して反日映画に使った中国人が悪いのだ。」と反論されるかもしれないけど、
そもそも、(実際に「刀匠を騙して反日に使った」のかは置くにしても)そういう「被害者性」に依拠してある物事の正当性を全面的に覆そうとする考え方自体を正しいと思ってないんだよね、私は。

不快感至上主義になんて普遍性はない


以前、プリンスホテルの時に日記で、「私は迷惑だ」式の主張が直ちに正義であると勘違いしている人を指して「感情至上主義」と名付けてみたんだけど、
id:hokusyuさんのエントリで「不快感至上主義」って使ってて、そっちの方が端的でいいからそっちの表現を使うことにします。

で、プリンスホテルの時に、

「迷惑をかけない」ようにするのはいいことだけど、「迷惑をかけられた」からって偉いわけじゃないし、迷惑をかけられた人とかけた人の二者の関係に絞っても、別に「迷惑行為」からは道徳的優劣は一切生まれてこないと思う。

って書いたんだけど、どうも現代の風潮としてここを勘違いしがち。
迷惑行為はない方がいいし、迷惑行為の被害者は気の毒だ。重大犯罪の被害者ならケアも必要だろうと思う。
だが、被害者自身の発言には「当事者の発言」という意味以上のものはないし、被害者性を聖化する必要は全くないばかりか、そんなことをするべきではない。


とはいえ現状では不快感至上主義はどこまでも重視されており、


・JRは「不快かもしれないな」という判断で裸祭りポスターの掲示を拒否し
プリンスホテルは「当日は受験生もいるし……」という判断で日教組の集会を断り
最高裁は「住民がイヤだと言ってる」を根拠にビラ配りを有罪にし
・愛国議員は「出演者がイヤだと言ってる」を根拠に映画の公開を中止にしようとする


「私は迷惑だ」を「公共の福祉」にあっさり接続し、あらゆる言論・表現・異質性が容易に排除されてしまう世の中って本当に怖いと思う。
こんな不自由でグロテスクな世の中を本当にみんな望んでるんですか?
「人様に迷惑をかけちゃいけないんだよ」という、この素朴な禁則が素朴さゆえに心情的に広く受け入れられ、今まさに自由の危機を招いてると思う。


はっきり言って、「靖国」の問題なんて、中国人が靖国神社の映画撮ったことが気に入らないだけでしょ? ただ単に。
その気に入らなさに乗っかって、「もっと中国人監督を困らせてやれ」と無断撮影やらなんやらで無邪気に責め立て、映画を潰す前例作ったらそれこそ表現の自由の危機だよ。
そういう意味では「中国人は靖国神社の映画を撮ってはいけません」の方がまだマシなんだよ。
だからこれもビラ配り有罪と同じパターン。
言論弾圧じゃない」と強調し、判決を一般的な「公共の福祉」の観点から正当化しようとすることの方がよっぽど危険。


靖国」を潰したい一心で、ドキュメンタリーという手法のもつ根本的な危うさそのものを図らずも攻撃してしまってる。
被写体の意向が最大限尊重され、被写体が「他人にこう見せたい」と思っている表情だけを使用するのが穏当で合法的なあり方だとするなら、もう現代では「人間の出てくる」視覚芸術なんてものは成立しないよ。
でも多分、こう危険だ表現の危機だと言ったところで、「制作過程で人に迷惑をかけてるなら、それは芸術の名に値しない」とか言う人もいるかもしれないけどね。


ところで、私はマナーポスターの類いが大嫌いなんだけど、ポスターにはたいてい「他人を思いやりましょう」的なことが書いてある。
いい文句だ。
しかし、暫定的で多数派的な「マナー」などというものを過剰に重視し、逸脱を許容できず、さらには(無作法だったりする)少数者を抑圧し排除しようする態度のどこに「思いやり」があるんだろう?
「不機嫌」を押しつけ他人のあら探しをし、マナー違反の指弾に血道を上げることが「正義」とされる世の中はおかしいし、その世の中を軽やかに生き抜く自称良識派の皆さんの自認する「正義」って一体なんなの? 実は醜悪な利己主義を陳腐な道徳律で糊塗して自分を欺いてるだけなんじゃ?


とまあそんなことを以前から思ってきたんだけど話がそれすぎたのでやめとく。
道徳っていうのは大きなテーマだけど、とりあえず私は「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」くらいの普遍性を求めないとダメだと思ってます。



愛国心のくだらなさ


というわけで、「不快感至上主義」の普遍性のなさが、いわゆる「愛国心」に似てる。
と思ったけど続きは今度。