さらば、わが愛 覇王別姫@シアターコクーン

渋谷のシアターコクーンでやってる、「さらば、わが愛 覇王別姫」を観てきました。


滅多に舞台は観に行かないので、やっぱり舞台っていいな!と思った。

独特の緊張感がいいし、京劇役者の話だけに、劇中劇では客席が劇中の客席(なんかわかりづらいな……)に見立てられる演出もあり、
舞台ならではの楽しみがありました。


演出も素敵で、冒頭のスローモーションのところからもうグッと引き込まれて、
あっという間の2時間だった。


そもそも、チェン・カイコーの映画も大好きだったから、
それを東山紀之女形で舞台化するならこれは観てみたいと思って行ったわけだけど、
「原作:李碧華」とあるもののかなり映画を踏まえてる。
映画の脚本も李碧華だからいいのか。


そして、映画は3時間だけど、この公演は2時間で、さらに圧縮されてる。
(というわけで、映画で個人的に好きだった、小豆子が鼎におしっこさせられるシーンはなかったw)


演出も音楽も衣装もいいし、東山紀之女形っぷりも魅力的だったけど、圧縮されてる感はしてしまう。
まあ、映画の方もエピソードが相次いで行くような感じはあったから大体同じなんだけど。
(「ニューシネマパラダイス」でも思ったけど、歳月と社会情勢の推移を描こうとするとどうしてもああなっちゃうのかな。)


気になったところは、遠藤憲一の段小楼。
演技は良かったんだけど、歌がまずい。
一応ミュージカル仕立てなのでこれは気になる。
でもまあいいか。


非常に良かったところは、二人が覇王別姫を演じるシーンが何度も出てくるんだけど、
東山紀之演ずる程蝶衣演ずる虞姫が剣の舞をする場面があって、そこは一見の価値あり。
日本兵によって中断させられるのが残念。日本軍め!


あと、「京劇の庇護者」袁四爺(西岡徳馬)宅に招かれ、
肉体的な同性愛関係になったことをほのめかしつつ阿片に溺れていく場面があるんだけど、ここでの東山紀之は独特。


このシーンに限らないんだけど、映画のレスリー・チャンの程蝶衣は割と人間性が欠如してる感じで、
終始、程蝶衣に酔ってるようなキャラ。
というのも、劇中にも「役者が役に酔わなくてどうして観客を酔わせることができるのか」みたいなセリフがあるけど、
まさに役者「程蝶衣」の人生に自覚的に酔ってる感じがする。


対して、東山紀之の程蝶衣は、この阿片吸うシーンにしてもそうなんだけど、終始強い自意識を保ってる感じがするんだよね。
単に東山の顔立ちがそうだからなのかもしれないけど、キリっとしてる。
これを「『東山紀之』が強すぎる……」と否定的に捉えることもできるだろうけどね。


さらば、わが愛」は、程蝶衣・段小楼・仙菊の三角関係を中心にしつつ、
程蝶衣が「現実の自分/舞台上の自分(役)」と「男/女」を重ねながらその境界定かならぬ領域で煩悶し、
さらに時代と社会情勢の変化によって翻弄されるという話。

だから、京劇の演目についても古典作品/現代作品(共産党プロパガンダとしての京劇)の対立 が出てくるし、程蝶衣も当然その対立に巻き込まれて苦しむ。
そして、現実は古典作品の上演を許さなくなり、程蝶衣は舞台を失う。

最後に程蝶衣は虞姫の衣装のまま、覇王別姫の筋に従って死ぬわけだが、そこで「現実」を殺し、また、「女」になる。
冒頭の六本目の指を母親に切断されるっていうエピソードが繰り返されて幕。

この辺の流れが、東山紀之の場合全部自覚的に選びとってる印象になる。
翻弄されてはいるんだけど、レスリー・チャンに比べてある種の「生真面目さ」を感じさせるというか。


同性愛的な描写に関しては、レスリー・チャンの方がセクシーというか、
やっぱり東山だと潤んだ感じにはならない。そこは欠点なのかもね。


もう一回くらい観に行きたいけど、無理だろうな……。