感情至上主義に配慮することは「公共の福祉」でも何でもない

今さらながら、教研集会拒否のニュースで書いた日記をうp

http://www.princehotels.co.jp/kouhou/pdf/20080205kumiai.pdf
↑ここでプリンスホテル側の釈明が読める。

受験シーズンとかなんとか書いてあるけど要するに

当社は近隣住民、学校、病院等におかけするご迷惑、お客さまの安全・安心を第一に考えて契約を解除した


ということらしい。


これって「あんたのホテルが日教組の集会なんて受け付けたせいでこっちは大迷惑だよ! どうしてくれる!」っていう苦情が予想されたからそれに予め対応したってことでしょ。
こんな苦情には全く共感できないし、こういう感情至上主義的かつ利己的な反感に予め配慮することを「公共の福祉」かなんかと取り違えてるとしたら愚劣もいいとこだわ。


(※以下、話がだいぶそれた感じになります……)


これは繰り返し主張してきたことなんだけど、「人に迷惑をかけてはいけない」っていうのは自分にのみ適用するべきだと思うんだよね。
これを自分自身に課し行動規範にすることで、道徳的により良い判断を下せるかもしれないし、そういう点でシンプルな金言たり得てるんだと思う。


でも、最近のマナーポスターとか見てるとこれが逆転している。
自分が不快に感じた/迷惑をかけられたということをもって、相対的な道徳的優位性を示そうとする考え方があって、もはや主流になりつつある気がする。
でもこんなことは全くの勘違いではないか?


「迷惑をかけない」ようにするのはいいことだけど、「迷惑をかけられた」からって偉いわけじゃないし、迷惑をかけられた人とかけた人の二者の関係に絞っても、別に「迷惑行為」からは道徳的優劣は一切生まれてこないと思う。


そこを勘違いしてる人は「私は不快だ」と表明することが、あたかも水戸黄門の印籠みたいに他人をひれ伏させる効力のあるものだと思い込んでるが、実はそれは単なる感情の表明に過ぎない。
なにも不愉快になっても黙ってろと言いたいわけでなく、そこを出発点に自分の権利と他人の自由との間にいかなる調停が可能かというのを考えるのが公共道徳のあるべき姿。(あくまで私の考えだが)


そこをはき違え、なんら調停を目指さないまま、まさにそのはき違えた道徳観で他人を抑圧しようとする愚かな行為が公然と行われ、しかも当人たちはその行為にこそ道徳的優位性を自覚しているという恐るべき自己欺瞞
この傾向こそ現代の(道徳的退廃の事例とされてるような)諸問題の根本原因なのだ……ってことを毎回のように日記で書いてる。。。


しかもこの傾向にはある種の「弱者利権」に群がろうとする心性も関係してる。「私は迷惑行為の被害者、つまり弱者であり格別の配慮を要求する権利がある」という理屈。しかしこれはこれで尊重されていい局面もあるだろうし、外面的にはっきりと区別できない分とても厄介。そしてこの厄介さすら自覚され、こうした要求の有効性を高めている。


結局いつもの話になってしまったけど、今回ホテルが下した判断もまた、私が危惧しているこの傾向がますます強くなってることを証明してるんじゃないの。裸祭りに続いて。もううんざり。