浜松で野宿女性死亡

http://news24.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1202400924/


このニュースへの反応は↓こんな感じ


・野宿女性の死を悼み、市職員の不手際を責めるもの
・野宿女性にも問題があるとし、市職員の対応の限界を認め擁護するもの


後者にもいろいろあって、


・その場の感情に流されてホームレスに施しをしたところで、翌日からホームレスが殺到するだけでなんの解決にもならない
・なぜ生活保護福祉施設があるのに、わざわざ路上で起居するのか
・そもそもホームレスは自己責任、助ける必要もない
・このニュースで市職員叩いてる奴は日頃からホームレス支援とかしてるのか? 今すぐ全財産持って釜ヶ崎でも行けよ。


などなど。


「野宿女性にも問題はあったんじゃないの?」式の考え方もわからなくはない。「野たれ死になんてかわいそう」という感情を「陳腐な俗情」とし、それに流されることを嫌い、彼らなりに公平にこのニュースを捉えようとしたんだと思う。


でも単純に、貧困や路上死はあってはならないことだし、こういう報道に触れたときに、野宿女性に同情し、たとえ理想論的に響くとしても「貧困問題をどうにかしなければ」と少しでも思ってみる方がよっぽどいいと思う。「私は人の死だからといって過大に騒ぎ立てたりはしない」などと冷徹な知性を気取り、知的な市民的良識を自称する連中よりは一万倍くらいマシだと思う。


確かに、このニュースはホームレスをめぐるいろんな問題の結果として現れてきているわけで、感情的に当事者の市職員を吊るし上げればいいという問題ではない。
でも、私が問題にしたいのは、公平たろうとして市職員を擁護しようとする中で、ホームレスに対する無理解と偏見を易々と露呈してしまっている人があまりに多いということ。


と、ここで余談ですが、私の中で今「貧困問題」「野宿者問題」はすごく重要なテーマになってます。
私の個人的な研究テーマは「弱者問題を利用する俗流道徳の自己欺瞞」なので、弱者問題について広汎に興味は持ってました。去年、たまたま『ルポ最底辺―不安定就労と野宿』(生田武志著、ちくま新書)という本を読んで、ホームレスに対する偏見のすごさと、彼らがいかに悲惨な境遇にあるかを知り、結構ショックを受けました。それをきっかけに地元のホームレス支援団体にボランティアとして参加することにして、実際に野宿者の巡回をして話聞いたりしてます。まだまだ参加したばっかりで偉そうなこと言えないんだけど。。。
貧困問題についての本も読みまくってます。。。


そんなわけで、このニュースには言いたいことあるし、このニュースについての日記もいろいろ読んでしまい、やっぱり言いたいことはいっぱいある。
私としては、ホームレスに対して安易に自己責任論を適用するのは間違ってると思うし、上に挙げた「市職員擁護派」の意見のほとんどがホームレスに対する無理解と偏見に基づいていることは指摘しておきたい。
(でも、その辺を詳しく書くと長くなるし、どうしても本で読んだことの受け売りになってしまうので、だったらとりあえず『ルポ最底辺』を読むことをオススメしたい。)


一つ重要なことは、ホームレスに対する偏見はもはや差別感情でしかないのに、その差別感情を吐露することが全く躊躇なく行われているということ。そして実行面でも、彼らを蔑視し排除しようとすることが、良識的立場の側から正当化され公然と行われている。
例えば、障碍者ハンセン病患者やその他の重病患者、高齢者など、また被差別部落の人たちを公然と排除しようとすることは今では見られない。


ハンセン病患者排除の歴史は、その病気に対する無知と、皮膚疾患に対する生理的嫌悪感が理由になってるが、今では(単に隔離政策が功を奏してるだけだと思うけど)、歴史的な忌避感情や生理的嫌悪感に「人権意識」がとりあえず勝利し、(建前論にしても)彼らの人権は尊重されるようになってきている。だからこそ、公共の場で「キモイ」とか言ったり、ホテルへの宿泊を拒否したりすれば相当の非難を浴びる。


野宿者、浮浪者、こじきに対する差別感情も同じように歴史が古く、部落史の本なんか読んでも、大昔から排除されてきた。こういう歴史的な忌避感情も働くだろうし、衛生状態の悪い彼らの悪臭が生理的嫌悪感を催すことは確かだと思う。そして彼らも建前上は人間として尊重されており、野宿者対策も歴史が古く、実際に多種多様な福祉政策/福祉施設が存在する。
しかし、ホームレス排除の住民運動などが起きても、そのこと自体はさほど問題にならない。


これは多分、古来差別されてきた人々は今も差別されており「人間として見られていない」のであって、たまたま野宿者は数が多いから排除事例に事欠かないだけなんだと思う。また、数が多い分、一般市民の「快適な居住権」等々を侵害しているとみなされる事例も多くなり、いっそう建前論が機能しない。ここに野宿者問題の難しさがあるわけだが、私としてはそれでも、とりあえず人間として尊重することからはじめれば、と思う。


今回のニュースにしても、もし行き倒れが野宿女性でなく、身なりのいい人だったら市職員の対応も別のものになっていたのではないか。忌避感情が働いていたからこそ、一歩進んだ対応ができなかったのではないかと思う。
極端な話、自分の母親だったりそうじゃなくても顔見知りが「4日間食事していない。ご飯が食べたい」と言って衰弱していたら、「職務の範囲内でできることはやった」けど死んだ。って事態にはならなんじゃないの。
何も赤の他人を身内のように扱えとかそんな厳しい要求はできないけど、想像力には欠けていると思う。


また各地でホームレスは襲撃を受けており、私が会って話した人も、毎晩寝床ごと蹴られて怖いと言っている人がいた。
これも、ホームレスが公然と差別され排除されているからこそ起こる問題で、そもそも同じ人間として尊重してない。


現在、野宿者は公然と差別に晒されている。
そして、新自由主義の潮流の中で今後も野宿者は増加していくはず。
新自由主義の枠組みでものを考えることに慣れきった連中は、「競争に負け路上で飢えるのも自己責任」などと言うが、生まれ・育ち・教育に恵まれず、社会でうまくやっていくことができず路上にいる者にこそ援助が必要だとは思わないのだろうか。
『ルポ最底辺』に出てくるエピソードだけど、大阪市西成区のホームレスが置かれた医療/衛生/栄養状態の劣悪さは難民キャンプにも劣る水準で、「国境なき医師団」が診療所を開設したらしい。先進国で新規に診療所が開設されることは極めて異例であるとのこと。


また、マナー違反を糾弾し無作法を嫌う、高学歴で地位もある「良識的市民」は野宿者の悪臭に眉をひそめ、「非常識でマナーの悪い迷惑分子」として、野宿者を追放しようとする。そんな人たちでも、知的障碍者と接する際には、苦笑いしつつも慇懃に振る舞う。実のところどちらに対しても人権尊重の意識はなく、良識的市民としての利害意識しかない。多数性に安住し自身の道徳的優位性を信じて疑わない彼らだが、実はこうした道徳的自己欺瞞が、現代の諸問題の根本原因となっている。と私は思う。