裸祭りポスター掲示拒否で思ったこと


・公共の場において「不快に感じる(であろう)」事象をただ単に排除しようとするのは間違ってる。
・こういう事なかれ主義は公共性について各々が主体的に反省する機会を奪い、公共道徳の観点からもむしろ有害。
・この傾向が進むと窮屈でおかしな世の中になる。


こんなことを以前から主張してきたわけだが、「KY(空気読めない)」がめでたく流行語大賞にノミネートされた2007年を終え、新年を迎えたと思ったらこのニュース。
こういう事態になってもなお、空気を読んで配慮の押し売りをすることが美事だと思ってる人ってまだいるんだろうかw

JR東日本盛岡支社の佐藤英喜・販売促進課副課長は「セクハラが問題になる中、公共の場でのポスター掲示の基準は厳しくなっている」と説明する。そのうえで「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」と判断したという。


とのことだけど、極めて公共性の高いJRがこういう自主判断をしたこと自体がすさまじく大問題。どっかのレストランの店主とかが自分の店に貼るポスター選んでるのとはわけがちがうからね。


まあこの件が一般的な感覚からしてやや「行き過ぎ」だからこそいちいちニュースになってるんだろうし、じきにJRも撤回とかするかもしれない。
そう考えればまだ安心できないこともないけど、こういう事例が現実に登場するほどの時代になってるという認識は必要。


そして掲示拒否されたポスターが「裸祭り」のものだったというのがまた象徴的。上辺を取り繕い、対話を拒否し、無言のうちに配慮を要求し合う「空気の読める」善人どもは裸を嫌う。


「見たくないものを見せるのは迷惑行為」だからポスターは掲示を拒否され、「聞きたくない音を聞かせるのは迷惑行為」だからヘッドホンの音漏れや携帯電話などがいちいち問題視され、「嗅ぎたくない(ry」だから電車内での飲食が禁止事項になる。
公共道徳の基底に、「異質な他者への理解と共存」ではなく、「不快なものの排除」を置いてしまったがために、いつも不機嫌そうに他人のあら探しをし、マナー違反の指弾に熱中することが「良識的」行為になるという最低の時代になった。

まさしく、21世紀が「末人の世紀」であることが明らかになったというわけ。

森茉莉のエッセイに、「世界の終わりがくるなら、今きてもいい。自分が巻き添えになるのは構わないから、このチャラチャラした連中を焼き払ってくれ」というような趣旨の文章があって笑ったんだけど、そんな気分w
私としては、「原爆投下しょうがない」の久間発言をさらに進めて、「今度は東京に水爆を投下してはどうか」と米政府におねだりしたいところである。