「本音で話す」ってそんなに立派?

東横インの件。西田社長を擁護しようとする立場もあるみたい。(こことか)
会見を見た時に、さわやかさを感じる人もいるだろうなとは思ったけど。知人で、「日本では、本当のことを言うと叩かれるんだ。」みたいな反応をした人がいた。確かに、西田社長のあの会見は概ね「本音」を言ったんだろう。(実は本音に見せかけたウソも混ざってたと思う。点字ブロックを「掃除の邪魔だからとっちゃった」とか言ってたけど、掃除の邪魔だからなんて言う理由じゃなくて、「障碍者には泊まりに来て欲しくない」っていう基本方針があったんじゃないの? さすがに「障碍者お断り」っていう本音はやばすぎて伏せただけで。)

そう、立派な「建前」に対して、「でもそれってキツイよね」みたく「本音」をこぼすと歓迎されるムードはあるし、ヨゴレ役を買って出るかのような態度が、勇気ある行動として賞賛されるような場面もあると思う。この件では賞賛までいかないまでも、西田社長の発言に同意できるという立場がブログでもちらほらあるみたい。(少ないけど)そして、ここでは、こんな発言も。

それにしても東横インの件でいろんなブログをみて思ったんですが、随分と善い人が多いですね。皆さん随分な叩き様です。私には出来ません。

この手の主張に対して、夏目漱石の『三四郎』を思い出したのです。

近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

要するに、夏目漱石の時代から、「建前を通して偽善を匂わすくらいなら、露悪的でも本音でいく」っていう風潮があったっていうこと。
この東横インの件で、僕が一番不愉快なのはまさにこの露悪趣味っていうやつ。当の社長がヘラヘラ本音をしゃべって、「皆さんも本当はそう思うでしょ?」みたいな態度でいること。大多数の人の反応と同じなんだけど、もうあの会見は本当にヒドイなと思った。擁護なんてとんでもない!
今回の件は、建前/本音の内容的にも擁護できないと思う。「悪法もまた法なり」みたいなハナシじゃないでしょ? どんな法律なんだか詳しく知らないけど、障碍者を社会がサポートしていくためのせめてもの法律なんだから、障碍者の人たちにしてみたらこの法律は一定の歴史的成果であって、それをあっけらかんと破っていいわけがない。
障碍者云々は置いとくとしても、この「偽善に走るくらいなら露悪趣味」っていう風潮は本当に最悪だと思う。発展性の無い「本音」を共有して馴れ合って、理想を語る人の足を引っ張る社会なんて最悪! 滅びるよ!
小泉総理もたまに露悪趣味めいた「だって○○でしょ。何の問題も無い。」みたいな断定発言するけど、そういうわかりやすい(共感しやすい)発言こそ気をつけないとダメ。

日本の外交がなんかヌルいのも、外国と本音で馴れ合いたい気がどこかにあるからだと思う。アメリカは偽善的で恥知らずに見えるけど、偽善的に振る舞うのも「理念」があるから。中国もそう。日本だって「理念」でもってガンガンやって欲しいよね! 日本の外交理念っていうのもあるにはあるんだろうし。

どうでもいいけど、理念の話してるのに「対案を出せ」とかいうバカが後を絶たなかったり。

話がそれたけど、「西田社長を叩いてるそこのアナタ。あなたはそんなに立派な人なんですか?」っていう立場は、この件の反応としては最悪なものだと思ったのです。偽善を捨てる代わりに悪を擁護してしまう愚かさに気がつかないの? 偽善が嫌なら善を目指せばいいのに、クルッと引き返しちゃうのは面倒くさいから? 最悪!

ちなみに、「障害者」より「障碍者」っていう表記の方がいいっていう文章をどこかで読んで感銘を受けたので、なるべく「障碍者」っていう表記にするようにしてます。