加藤智大通りの献花台/地上の凶行/乱調の秋葉原


秋葉原の事件について相変わらず考えがまとまらないけどメモ。

天漢日乗のエントリによると、アキバ通り魔事件は「加藤の乱」と呼ばれつつあるらしい。あれはテロではなく単なる通り魔だし、まぁテロも通り魔も自意識を持て余した青年の吹き上がりという点では大差ない訳だが、あまり持ち上げると便乗犯を招くんで過剰な意味付けは避ける必要がある。という訳で、アキバ通り魔事件はテロじゃないし、あれを以て剣はペンよりも強しなんて結論づけちゃ、まずいだろ。
「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために - 雑種路線でいこうの冒頭部分)

このエントリ全体としては皆さんお褒めなのでなんかいいことが書いてあるんだろうけど、私にはよくわからなかった。でもこの引用部分(冒頭のところ)ですでになんか反発を覚えたので、何に反発したのかを通じていろいろ考えてみました。*1

「単なる通り魔」とか、「過剰な意味付け」とかっていうのはなんなんでしょうか? 私たちは日々殺人事件が報道される中で、殺人行為/殺人事件というものを陳腐化して捉えてるようなことは確かにあるかもしれません。しかし本来、人の死というものはそう簡単に陳腐化することのできない/してはいけないものです。ネトウヨとかそれに類するバカが好んで引き合いに出す「日本よりもっと悲惨な世界のどこか」を例にとってみても、パレスチナイラクにおいて日常的に人が殺されていたからといって、その死は「ただのテロ被害」などと陳腐化されていいはずはありません。一年間に何百何千何万の命が暴力的に奪われていたとしても、そのそれぞれはたった一人の誰かだったのです。ある死者に遺族や知人があった場合、残された者はただ「悲しみ」という一語に帰すことのできないような、謎も含んだような深い感情に襲われるでしょう。ここでこそ喪失を通じて「実存的な生」が根源的に意識されており、世界ごと揺さぶられるのです。生命は交換不可能であって、人は誰も比類なき存在です。わかりきったことをくどくどと確認するようですが、私たちはこんな大事なことでもたまに忘れているのです。地上に置き忘れたまま、船上パーティをおっぱじめてしまうのです。

実は私は、この秋葉原の事件にどえらい衝撃を受けています。ショックです。日常的に報道される殺人事件には特別衝撃も受けなかった風なのに、なぜこの事件ばっかり問題にするのか? おそらく、白昼の秋葉原で7人もの人が……とかいうようなわかりやすい構図、わかりやすい珍しさにびっくりしたという面が多分にあるでしょう。多分にあるもなにも、ただ単にそれだけのことかも……。

いずれにせよ、「殺人」とは恐るべき行為です。人の死は近い者にとって、また時にさして近くない者にとっても、決して陳腐化できない出来事です。実存の裂け目に揺さぶられる、どこまでも地上の出来事です。25歳の加藤智大さんは絶望の中で諧調を拒否し、人を殺してしまいました。

私は今日(6月16日)、秋葉原に立ち寄って献花してきました。いつも通り人も多く騒々しい秋葉原ではあるものの、交差点には大きな献花台が置かれ、通りかかる人は立ち止まって手を合わせていました。あの日の乱調が刻印を残し、秋葉原の諧調を乱し続けています。人の死はかように人の心を動かすのです。「通り魔事件」は加害と被害の両面において、血が流れ人が死ぬという圧倒的な現実において、ただ諧調における「意味付け」などというお遊戯以上の根源的な何かを提示します。私はただ単に実感として打たれたのです。なにがどう打たれたのか説明できませんが、諧調が排除し隠蔽する「実存的な生」に打たれたのです。この意味で、「剣はペンよりも強い」のです。ペンなど、剣の切っ先を濡らした血に比べればハナクソみたいなものではないでしょうか。

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私たちは「自意識を持て余した青年の吹き上がり」とやらまで演目に加え、船上パーティを続られるものだと思っていた。諧調の暴力に晒されながら、それでもなお諧調に伍そうとギリギリのところで呻いていた人たちのことを私たちは知っていたのに、船上パーティを続けていた。この諧調が堪え難いものであったときに、なぜ加藤智大さん一人が乱調の提供を担わねばならなかったのか? なんということをさせてしまったんだろう。私たちは良識だとか、品格だとか、モラルだとか御託を並べて一体何を築こうとしていたんだろう。加藤智大さんを異常者と呼ぶのか? 殺人者を必要とする社会が異常なんじゃないか!


諧調の欺瞞は今や明らかだ。私たちは誰も、第二第三の加藤智大を待望していないし、殺人行為を望んでいない。それなにまだ気付いていない、船上パーティをまだ続けようとする奴らがいる。良識面して「ああいう人のことは全く理解できませんの」と抜かす連中がいる。非日常から目を背け、諧調を守り続けようとする「自称良識派」どもがいる。何年かしたら、加藤智大さんは死刑になるのだろうか? 「あの事件の加藤」の絞首刑執行が報じられる日に、野蛮人どもは「ああ! この世からまた一人悪が消えたぞ!」と快哉を叫ぶのだろうか?


この乱調、非日常を直視し、船上パーティをやめることだ。「良識」の看板を外し、良識の抑圧をやめることだ。献花台が撤去され死刑判決によって諧調が戻る日、7人の落命も、加藤さんの絶望も、献花台に手を合わせた大勢の人の心を打った何かも、全てなかったことになる。「あのような凶行を犯した加藤を絶対に許すことができない」と思うなら、加藤智大さんを絶対に死刑にしてはいけない。犯罪を憎みながら、同時に加藤智大さんという個人とともに生きていくことはできないだろうか? 私は、加藤智大さんが再び迎え入れられるような世の中でなくてはいけないと思う。そういう世の中でこそ、この事件で亡くなった7名を本当の意味で供養*2できると思う。「殺人」という人間事象を通じてもなお、いやむしろ、そういった忌まわしき事象を経るからこそ、生とその個別性をどこまでも肯定することができるのだ。

*1:きっかけとして引用させてもらいました。エントリ全体の批判記事ではありません。そういう噛み合い方はしてないと思いますので……。

*2:供養ってなんだろうね? よくわからない。