無差別殺人くらいしかやることがない


秋葉原の事件、全然考えがまとまらないけどメモ。


現代日本の「世間」様が守り続けるハーモニー、「諧調」にはちゃんと少数者の居場所も確保されている。少数者を「病人」として遇するような居場所。病気なのだから、ケアや対策でなんとかできると思ってる。不平不満の叫び、鬱屈したつぶやきも、全部日常の風景に回収できる。


政治的主張も、「あの人は政治的主張が好きな人だから」のレベルで消費されてしまうから、デモやビラでは諧調が乱されることがない。


十代の女の子が手首を切ったり、赤の他人同士がネットで募って集団自殺しても、ネットという手段が問題にされることはあるけど*1、彼らの絶望が問題になることはないし、自殺なんかで諧調が乱されることはない。自殺はすでに十分多い。


現代の多数派であるところの「自称良識」が担う日本社会というのは、言ってみれば「船上パーティ」のようなものかもしれない。はじめから船に乗ってない人/乗せてもらえない人のことは全く問題にならないし、船から飛び降りた人もすぐ忘れられる。船室にこもっていてパーティ会場に顔を出さない人はまあ、船に乗ってない人に比べたら気にかけてもらえる。パーティでは様々な趣向の催しが行われ、良男良女たちは少し猥雑なものに眉をしかめることもあるし、痛々しいものには目を塞ぐ仕草をしてみせることもある、でも大概のものに拍手を送る。予定調和的なプログラム。


これはどこまでも「船の上」であって、「地に足がついて」ない。現代日本の諧調は、地上で本当に起きていることから少し遮断されたところで成り立ってる気がする。


「あなたの不平不満には共感できないこともない、でも無差別に人を殺さなくても……」と眉をしかめる反応はまあいい方だと思う。加藤さんをアタマからモンスター化しないわけだから。でも、不平不満をどうしたら聞いてもらえるのか?


●犯行に至る経緯を実況中継

「携帯をいじる他にやることないのかって、無いよ」――秋葉原の通り魔は“書き込み魔”でもあった。逮捕された加藤智大は、犯行に至る経緯を「実況中継」した携帯ネットの掲示板に、1カ月で計3000回、最高で1日約250回にも及ぶ書き込みを行っていた。

目立つのは「高校出てから8年負けっぱなしの人生」「チャンス、人生に1回もなかったけど」といった投げやりな記述だ。

自分の容姿について「どうせ彼女できないし」「結局、顔」「不細工には恋愛する権利が存在しません」とコンプレックスをのぞかせ、「彼女さえいればこんなに惨めに生きなくていいのに」「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」と劣等感をにじませた。

両親についても「親に無理やり勉強させられた」「とにかく両親には責任をとって死んでいただきたい」と不満を漏らし、「勝ち組はみんな死んでしまえ」「俺もみんなに馬鹿にされているから車でひけばいいのか」「やりたいこと…殺人」と他者への攻撃性をムキ出しにした記述も。

自ら「携帯依存」と書き込んだ加藤だが、周囲から「おとなしく、口数が少ない人物」とみられていた男の過剰なまでの“冗舌”は一体、何を意味するのか。

「個人の日記と違い、掲示板の書き込みは『誰かに自分を見て欲しい』という意識が前提にある。自分の行動や気持ちを分刻みで書き込むことは、現実では満たされない自己顕示欲のハケ口だったのでしょう。彼は自らを『不細工』と卑下しながらも、“かわいそうな自分”に陶酔しているフシがある。四六時中、自分のことしか考えていない屈折した自己愛の持ち主ではないか」(臨床心理士矢幡洋氏)

とことん身勝手な男だ。


ゲンダイネット 6月11日)


身勝手な心情は誰が聞いてくれるのか?
この不平不満や絶望にまみれた自分をどうすればいいのか?
世の中は変えられないのではないか?


じゃあ、パーティ会場でナイフを振り回せばいいのかな???


ところがどっこい、無差別殺人をもってしてもこの良識派の「諧調」はびくともしないのだった! 東京芸術大学の学生の死を悼んだり、ナイフの規制を検討したり、歩行者天国をやめてみたり。こんなもの、どれもこれもパーティのプログラムにあったみたいじゃないか! 加藤さんもパーティの演者だったってだけじゃないか!


とはいえ、秋葉原の路上に積まれた献花の山や、被害者遺族/被害者関係者の流した涙には真実があるし、人にナイフを突き立てれば血も出るし死ぬという現実によって、船の上と地上が繋がった一瞬がある。加藤智大さんはほんの一瞬だけだけど乱調を提供したことは間違いない。でも彼は死刑になるだろうし、密室での死刑執行によってまたぞろ諧調は保たれる。池田小事件と同じ。宅間さんは希望通り吊されて、それでもう全部おしまいだった。おしまいということになっていた。でもそうじゃない。この事件が、池田小事件を意識して行われたのかどうか実際のところはわからないけど、宅間さんの乱調を乱調として胸に刻んでいる人はまだいる。船上パーティを続ける限り、この諧調による抑圧が続く限り、また起こる。諧調を乱す方法がこれしかないのなら、仕方がないと思う。


また、惨劇は突然起こるものではなく、常に準備されている。と言ったときに、この秋葉原の惨劇という非日常を準備した日常とはどういうものなのか? 非日常的な悲惨を悲しむ一方で、日常の悲惨にあまりにも鈍感だったのではないのか? だったら、非日常から日常を守っちゃだめだ。無差別殺人しかやることのない程の諧調、圧倒的な日常性こそ暴力なのであって、その暴力に晒された者の声は「希望は、戦争」ではまだ不十分だった。加藤智大さんにとって「希望は、殺人」であって、小規模ながら乱調を提供するという現実的な選択肢を実行したのだ。


無差別殺人などしなくても、諧調を少しずつ乱してく方法はあるような気がする。諧調が排除する人と積極的に連帯していくこととかかな。この事件の被害者や被害者遺族の悲しみを思うと、こういう無差別殺人は許し難い。だからこそ、加藤智大さんを死刑にはさせたくないし、殺人者を死刑にすることで成り立つような諧調を拒否したい。

*1:連絡方法がネットや携帯電話だったからって、そんなものただ目の前にあるから使っただけなのに。