想起説


すごく前の話だけど、ローマに行ったときに財布とかパスポートの入ったバッグを盗まれたことがある。ホテルのロビーのソファに座ってて、体のすぐ脇に持ってたはずなのに気付いたらなかった。帰国のための渡航書発行をしてもらいに大使館行ってやたら待たされたりして、バチカンに行く予定も台無し。

こんな話を人にすると、10人中7人くらいが、「ローマで鞄から目を離したら絶対駄目だよ。そんなの盗まれて当たり前。もっと気を付けなきゃ。」みたいなことを言う。海外慣れしたようなアドバイスを得意げに言ってくる。

たまに東京が天災に見舞われると、地方の人は「いやー、東京は台風に慣れてないからねー。」みたいなことを言う。かといって、天災慣れっ子のその人が不慣れな東京の人を手助けしたとかそういうことは別に無くて、天災が来ても特に困らなかった人たち(大方の人はそうだろう)と同じように、ただ家にいただけ。

趣味的なことでも、「こないだAくんと久々に話したら、○○についてすごく熱く語ってくれて感心しちゃったよ。」なんて言うと、「○○だったら僕の友達にすっごく詳しい人いるよ。○○の××で原稿書いてたし。」みたいに返してくる人がいる。かといって、その詳しい人を紹介してくれる気はないみたい。

別に他愛もない会話な訳だが、むかつく。多分、こういう切り返しの中に含まれるささやかな虚栄に自分自身心当たりがあるために、その虚栄から生まれてくる嘲りのようなものにまで共感できてしまうんだろうし、こういう折に、自分の中で親密に育っていた悪意の、その醜さに打たれて自分が萎れちゃうというのもあると思う。


あれが嫌いこれが嫌いと言ってる人がなんだかうざったいのは、その一つ一つの「嫌いなもの」の中に、その人自身が映り込んでしまっていることの恥に気付いていないからなんだろう。

そして、不愉快な目に遭ったときに、その「不愉快さ」を細分化して残るものは、かつて自分の中で生まれた、自分自身の醜さなのだろう。(cf.てんとう虫コミックスドラえもん23巻「ボクよりダメなやつが来た」)


逆に、「あぁ、いいな!」という経験も珍しくない。このことから、人はかつて、非常に美しいものにまみれていた時期もあるわけですね。