なにがどう「解決」なのか


1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発事故は、爆発とそれに続く10日間の火災によって莫大な量の放射性物質を漏出し、周辺地域を汚染するとともに多くの被災者(運転員・周辺住民・消火活動従事者・事故処理従事者ほか)に重大な健康被害をもたらし、多数の死者を出した。現場責任者を含む運転員たちや事故直後に消火活動に当たった消防士の多くは、事故後数週間のうちに放射線障害で死亡している。爆発で破壊された原子炉建屋周辺は極めて高いレベルの放射線量に置かれていたものの、放射能汚染の拡大を防ぐためには周辺に投げ出された汚染物質の清掃や、崩壊した建屋の復旧作業を大々的に行う必要があった。このチェルノブイリ原発事故の事故処理作業に当たった労働者は「リクビダートル(清掃人)」と呼ばれている。リクビダートルはソ連軍の兵士や軍関係者、そして、手厚い年金・住宅・医療等の保障条件によって全共和国から集められた多くの志願者*1で構成され、この作業のために汚染地域に入ったのは60万人から80万人といわれている。*2

彼らは高レベルの放射線量の中で作業せざるを得ず、一説によると従事者のうち1万人以上がすでに亡くなっており、多くの人が今もガンや白血病に苦しみ、また自殺も多いという。

建屋屋上の汚染された高放射能を帯びたグラファイトの処理がすさまじい。ロボットで対応していたのが、電子機器がいかれて作業が進まず、最終的には予備役の20代の若者たちが自家製の急ごしらえの簡易装備だけで素手グラファイトを階下へ投下していく。この兵士たちを「バイオロボット」と呼んだ。

http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2006/05/battle_of_chern.html

最終的には、50万人が作業に従事し、この人類未曾有の人災はなんとか封じ込めることが出来た(といっても第二の石棺計画を急ぐ必要が出ているというが、、、)。しかしソ連の政治的にこのタイミングで起きたことが人類としてはまだましな結果になったようにみえてしまった。(もちろん被爆し死亡もしくは後遺症に苦しむ人たちには本当にたいへん気の毒なのだけど、、、。)

ひとつは当時ゴルバチョフが進めていたグラスノスチで情報が西側にも開示され、国際原子力機関の査察が可能だったこと。
そしてもうひとつは、とは言ってもまだ共産主義体制が継続しており、人海戦術をとらざるを得なかったところで、兵士や民間人(特に賞賛すべきはわずか100ドルの賃金で穴を掘らされた採掘労働者)を強制的に政治の力で投入できたこと。これが自由主義の国だったら、これだけの人を投入することはきっと不可能で、事故の被害はもっと拡大していたことだろう。

(引用元同上)


チェルノブイリ原発事故の事故処理に当たってはまさに決死の労働力が必要とされた。そうした労働力の投入が共産主義政権下でなされたことは私たちにとって幸運だったのかもしれない。だって、そこにある重大な問い、重大なディレンマを、政治体制の違いによってはぐらかすことができるから。

しかし直視しなくてはならない。こうした大惨事において人道主義が直面する限界を。どす黒く口を開けて北半球を汚染する炉心にフタをせねばならない。あまりに高レベルの放射線量のため、ロボットという最適解を放棄し「バイオロボット」を動員せねばならない。そのとき私たちは「(おのおの個別性を備えた)比類なき人間」「生命の比較不可能性」という言葉とどう折り合いを付ければいいのか。いや違う、これは仮定の話ではなく20数年前に実際に行われたことだ。だから今、アウシュビッツ以後にしてチェルノブイリ以後の私たちが「比類なき人間」という理想を口にするとき、その言葉に豊かな内実を保証することは可能なのだろうか?

「もし時間を戻すことができて、もう一度事故の前に戻ることができたとしたら、また事故の処理作業に参加しますか?」と聞いたリューダに対し、「もしわたしがやらなかったとしても、ほかの誰かがやることになったでしょう。それならば、もちろんわたしはまた参加します。」とアナトリーさんは即答したという。
リューダはわたしに「彼のような人を本当の英雄というのだろう。」と言った。

http://www.cher9.to/tusin_54_02.html


全体主義的な独裁者による労働者の徴用が最適解でないのと同じくらい、「英雄」への期待も最適解ではない。自己犠牲的な英雄を必要とする人道主義など欺瞞だからだ。だからといって、優しく手を取りあって自ら滅んでいくのも絵空事だ。ここに「解決策」など存在しないのだ。大惨事において胸を張って採用できる「最適解」「解決策」などありはしない。常に人道は危機に晒され、私たちは苦悩のうちに「悪しき決断」に頼るしかないのではないか。*3


むしろこう言うことができる。「比類なき人間」はまさしく「比類なき」存在なのだから、死者数で何かを語ることも欺瞞である、と。


100人を助けるために1人を見殺しにすることも、1人の救助のために100人の生存を損なうことも、それは同じだけ悲劇なのではないか。ここで賢しげに「トリアージ」とか言い出すことは、「ソ連全体主義よ! ありがとう!」と平然とリクビダートルたちを死地に送り出した「西側」の自己欺瞞と同じだ。


http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

商学者様にはこんなものは言葉遊びにしか感じられないかもしれない。

この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。


しかし、倫理的前景をすっとばして「『全体や組織から見た最適』というコンセプト」やら「『かわいそう』のその先」などを云々したところでそんなものはカスだ。100年早い。どんな追記を重ねても、トリアージを「経営学的ソシューリョン」の文脈で語ることは私には容認できない。

*1:強制的な徴用もあったとされる

*2:調査機関によって推計はまちまち

*3:「被造物は最高善をなし得ない」と定式化できるかも