マナーのない乗客っているよねー

「折りたたむ」「そのままで」 電車内ベビーカーでマナー議論
5月19日12時16分配信 J-CASTニュース


ベビーカー使用マナーが「発言小町」でも話題に。ベビーカーを開いたまま乗るか、それとも折りたたむか。電車内でのベビーカー使用マナーについて、議論が起こっている。折りたたむのは、ベビーカーを利用する母親には負担が重い。かといってそのままだと、場所を取りじゃまだ、と感じる人も多い。


■「配慮して欲しいが、折りたたみを義務付けてはいない」


発端となったのは、JR東日本ほか関東・中部・関西の鉄道事業者30社が2008年3月末から実施している共同キャンペーンだ。ベビーカーでの乗降時に注意を呼びかけるものだが、そのポスターの一部には、混雑する車内でベビーカーを折り畳み、子供を抱いて乗車する夫婦の写真が使用されている。

これに対し4月22日付けの産経新聞は、キャンペーンを開始した翌日の3月25日に、「折り畳めないなら電車に乗るなということか」という苦情の電話が読者サービス室にあったと報じている。電話の主は3人の小さな子供を持つ母親で

「1人で子供を連れて移動することが多い。マナーの問題にするのではなく、女性専用車両のように、ベビーカー専用の車両を設置してほしい。これでは病院にもいけない」

と訴えた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080519-00000000-jct-soci


ポスターってこれか


問題になってるのは左下の、「混雑時には他のお客さまへのご配慮をお願いします」のところだろう。(画像ちっちゃいけど)


率直に言って、子育て中の親にだけ配慮を要求してみせるこの文言は最低だな。


さらにこのニュースのブクマコメをいくつか引用↓

議論の本質はベビーカーをたたむことじゃない。周囲への配慮がないことがマナー違反。

極論ばかり取り上げもなあ。妊婦さんや赤ちゃん連れには席譲るけど?何にしろ自分は気付かわれて当然という態度はよくない。感謝もできない人はどうかと思う


「配慮」についてのこういった考え方を私は拒否します。(2番目に引用したコメントが誰に向けてるのか良くわからないけど、とりあえずそれはどっちでもいい)
「周囲への配慮がないことがマナー違反」という立場の何がいけないか。それは、その「周囲」とやらが一体何者であって、いかなる配慮を必要としているのかが全く不明なまま、実に乱暴に「とりあえず配慮しろよ」と一般化してしまっている点です。シュウイ様とやらは一体どんなにお偉い方で、どうしてまた臆面もなく「自分は気遣われて当然という態度」を取って、なおかつ「感謝もできない」んでしょうか?


簡単に言えば、「配慮する」ことは美徳でしょう。どんどんやればいい。しかし、「配慮を求める」ことは美徳ではないし、場合によってはむしろ悪徳ですらある。この国で多数派を形成している品行方正な自称良識派どもはこの点を完全に取り違えており、「人を思いやれ」とかもっともらしい言辞を弄しながらもその本心にあるのは卑しい自己利益だけであって、醜悪な排他主義を遂行するため巧妙に築き上げたマナーとか規範とか品格とかいう糞の山(これは彼らの歪んだ自己愛がひり出した糞に他ならない)を食らうことを万人に強制しようとし、そんな糞食をただただ多数性のみを根拠に「公序良俗」などと有り難がってみせる。そしてこの「配慮を求める」態度は不快感至上主義のシステムに根本的に組み込まれている一側面でもある。「人に迷惑をかけてはいけない」を「私に迷惑をかけてはいけない」と解釈するからこそ、当然のように配慮を求めるわけだ。ここで私が作った箴言を挙げておく。


配慮は贅沢品である。その贅沢品でもって思うさま人をもてなしてやれば良い。だが、いつもその贈りものを得られるなどと期待できるだろうか。


A氏は知人のB氏を家に招いたとき特上の寿司でもてなした。数日後、A氏は機会あってB氏の家に招かれたが、お寿司はおろかメシ自体が出なかった。お茶は出たけど。そんなわけで、A氏はB氏を恨み、交際をやめることを決意したのだった。


って、こんなA氏なる人物がいたとしてもバカはどうでもいいわけだが、例えば電車内でのベビーカー、ヘッドホンステレオ、体格のいい人が普通に(縮こまらずに)腰掛けてるせいで座れそうだけど微妙にムリ、とかいったケースにおいて「配慮のない奴だ!」などと腹を立てるとしたら、あなたはA氏並みかそれ以下の卑しい馬鹿者ということになる。あなたがもし普段ベビーカーを畳み、音量に気を付け、座り方に細心の注意を払っていたとしても、他人が同じようにやってくれるかどうかなんて本質的に関係がない。もちろん、他者が自分と同じ前提(「これをされたらイヤだろうからなるべくやらない」的な)を共有していることは大いにあり得ることだし、期待もできる。ただ、期待するのは勝手だが、そうじゃない可能性も高いんだよ、ということを言いたいのである。そして、公共空間においてなんだか不愉快な誰かとあなたの前提が共有できていないからといって、それは直ちに対話不可能なモンスターが現れたことを意味するわけではない。殺し合いを始める必要もなければ、「お上」に駆除を頼む必要もない。対話によって調停すればいいだけの話。


ドア付近でベビーカー置いてしゃべってる集団が邪魔で降りられないなら、ちょっとずれてもらって降りればいいし、乗れない時も同様。混雑してきて、あの人たちがベビーカー畳めばもっと大勢の人が快適に乗れるのに、と思うなら頼めばいい。(「注意する」のではない。)
ドア付近でベビーカー置いてしゃべってる集団がいるというその光景が気に障って仕方ないなら、「ごめんなさい、どうしても不愉快なもんでなんとかしてください。」と頼めばいい。


私はこれを弱者保護の話と結びつけて論点を曖昧にしたくないから、極端な話、ベビーカーに乗ってるのがイヌでもいいし、荷物でもいい。自分が疲れてるんだったら足を伸ばして座ってもいいし、音楽を聞こうが何をしようが制限されるいわれはない。不快感至上主義が安易に思い描く、「不快感を未然に防ぐ」社会を少し想像してみればいい。それは抑圧的で、全体の空気になじまない少数者を排除する世の中にしかならない。幸運にも多数派にいる人たちにはわからないかもしれないが、そんなあなたもいつ不快感のまなざしに捉えられ排除されるかわからない。


電車内であれどこであれ、公共空間において、「誰かの不快感におびえる」ような世の中を望んでいる人って本当に実在するんですか?

「この光景は私の気に障る」という意見が多かったからって、考えもなしに「電車内での化粧はご遠慮ください」とかいうポスターこさえてそれでいいの?


配慮したければすればいいけど、配慮っぷりを競うことを公共道徳かなにかと混同してみせたり、他者に同等の配慮を期待することだけは絶対にダメ。
配慮なんてものはし始めればキリがないんだから、本当に誠実に「配慮」とやらを遂行するならゴミ拾い(お掃除してくださる方の負担を軽減するという配慮)だけで一日終わるんじゃないの。また、人それぞれ育ってきた環境とか違うんだから、「他人に不快感を抱かせない所作」を完璧に身につけるのなんて土台ムリ。そういうことが苦手な人を公共空間から排除しようとすることなどあってはならない。


もし、公共空間において「マナー」などというものがあるとすれば、それは個別の不快感の場面ごとに調停を図っていくその過程において問われるものであって(つまり、「高圧的に人の行動を制限しようとしない」とか、「見ず知らずの人に話しかけられたからって刺殺しない」とか)、ベビーカーを畳むとか畳まないとか事前に決めることじゃない。(ただ、「畳む」っていうのはわざわざ畳まないといけないわけだから、とりあえずは「畳まない」でいいわけだけど。)


そんなわけで冒頭で引用した記事で言えば、苦情を入れた三児の母の言い分が圧倒的に正しいのであって、不快感至上主義者の単に自分勝手な不快感を根拠にベビーカー使用者が一層窮屈な思いをさせられるなら、そんな世の中はクズだし、いずれにせよこんなくだらないポスターは即刻剥がして破り捨てるべき。